オレーグ・スヴャトスラーヴィチ
Олег Святославич
クールスク公 князь Курский (1207-)
チェルニーゴフ公 князь Черниговский (1223-)
生:?
没:?
父:クールスク公スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチ (ノーヴゴロト=セーヴェルスキー公イーゴリ・スヴャトスラーヴィチ)
母:ヤロスラーヴァ (キエフ大公リューリク・ロスティスラーヴィチ)
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
ユーリー | ||||||
マリーヤ | -1279 | フセーヴォロド・コンスタンティーノヴィチ | 1210-38 | ヤロスラーヴリ公 |
第11世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。
素性は必ずしもはっきりせず、父親についてもルィリスク公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチだとする説もある(なお、年代記には父称が記されていない)。
1223年、チェルニーゴフ公ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチとともにカルカ河畔の戦いに従軍。クールスク軍は面前のモンゴル部隊を撃破したものの、戦い全体の趨勢を左右するほどの効果は持たなかった。
敗戦後、一旦はチェルニーゴフを占領。しかしすぐに(? 1226年に?)、ヴラディーミル大公ユーリー・フセヴォローディチの支援を得たミハイール・フセヴォローディチに追われる。
その後の消息も知られておらず、いつ死んだのか、どこかの分領を支配していたのか、妻はまだしも子がいたのかどうか、いたとすれば誰か、等、まったく不明。