リューリク家人名録

オレーグ・スヴャトスラーヴィチ

Олег Святославич

ノーヴゴロド=セーヴェルスキー公 князь Новгород-Северский (1164-80)

生:?
没:1180.01.16

父:チェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチチェルニーゴフ公オレーグ・スヴャトスラーヴィチ
母:エカテリーナ (ポーロヴェツ人のハーン・アエパ)

結婚①:1150
  & エレーナ公女 -1165 (ロストーフ=スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキー

結婚②:1165
  & アガーフィヤ公女 (スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
アガーフィヤ・ロスティスラーヴナと
1スヴャトスラーフ1167-ルィリスク

第9世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。

 父の長男で、母親はアエパ・ハーンの娘とされる。
 生年は不明。父は1107年にアエパ・ハーンの娘と結婚し、1136年にペトリーラの娘と再婚しているので、その間に生まれたことになる。ただし生年を1137年とする歴史書を見たことがあるが、とすると母親がペトリーラの娘だということになる。すでに1150年前後から一人前の活動をしていたらしいので、やはり1136年以前の生まれと見た方がいいだろう。

 1147年、父からの贈り物を持って、モスクワのユーリー・ドルゴルーキーのもとへ。

 1150年、ルーツクを攻略したユーリー・ドルゴルーキーの軍の中にオレーグ・スヴャトスラーヴィチも顔を見せていた。この年、ユーリー・ドルゴルーキーの娘マリーヤ(エレーナ?)と結婚。

 1157年、父がチェルニーゴフ公となる。これにあわせて(1159年?)、父からプティーヴリをもらう。当時チェルニーゴフを蹂躙していたポーロヴェツ人と戦い、これを追う。
 また、この頃クールスク公になったとする史料もある。いずれにせよ、父の下でチェルニーゴフの地方都市を分領としていたようだ。

 1160年、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチに従い、ペレヤスラーヴリに遠征してグレーブ・ユーリエヴィチと、キエフに遠征してロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチと戦う。
 しかしイジャスラーフ・ダヴィドヴィチロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチキエフ大公位を奪われ、これがもとで父とイジャスラーフ・ダヴィドヴィチの間に仲違いが生じ、父はロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチと和解。
 1161年、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチに従ってヴラディーミル・マーチェシチと戦い、スルーツクから追う。

 1164年、父が死去。
 父の死後、オーリゴヴィチ一族の最年長者は、従兄弟で、父の下でノーヴゴロド=セーヴェルスキーを支配していたスヴャトスラーフ・フセヴォローディチとなった。«セーヴェルスカヤ・ゼムリャー»(チェルニーゴフとノーヴゴロド=セーヴェルスキー)の中心都市であるチェルニーゴフは、当然最年長者たるスヴャトスラーフ・フセヴォローディチが相続するはずであったが、父の未亡人が、チェルニーゴフ主教アントーニーとボヤーリンたちの支持を集め、オレーグ・スヴャトスラーヴィチに与えてしまった。父の未亡人はオレーグ・スヴャトスラーヴィチにとっては継母であったはずだが(それともやはり実の母子だったのか)、継母・継子間の仲が良かったのか、オレーグ・スヴャトスラーヴィチが跡を継げば実子であるその弟たちがその次を狙えると思ったのか。
 当然スヴャトスラーフ・フセヴォローディチはこれに反発。戦の準備を始めた。オレーグ・スヴャトスラーヴィチはスヴャトスラーフ・フセヴォローディチにチェルニーゴフを譲り、自らはノーヴゴロド=セーヴェルスキーに退いた。

 1167年、一族のスヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチが死去。遺領ヴシチージュスヴャトスラーフ・フセヴォローディチが併合した。何も与えられなかったオレーグ・スヴャトスラーヴィチは、怒ってスタロドゥーブを攻略。介入してきたロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチのおかげで、都市を4つもらってスヴャトスラーフ・フセヴォローディチと講和した。

 ノーヴゴロド=セーヴェルスキー公領はポーロヴェツ人との最前線に位置しており、オレーグ・スヴャトスラーヴィチも連年のようにポーロヴェツ人と戦う。1167年から68年にかけての冬には、ヤロスラーフ・フセヴォローディチとともにステップに遠征し、ポーロヴェツ人の土地を蹂躙した。
 1168年にもムスティスラーフ・イジャスラーヴィチのポーロヴェツ遠征に従軍。

 1169年、ヴラディーミル大公アンドレイ・ボゴリューブスキーの派遣したキエフ遠征軍にも従軍し、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチと戦っている。

 1175年(74年)、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチキエフ大公となる。オレーグ・スヴャトスラーヴィチはチェルニーゴフを奪おうとするが、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチの軍に敗北。
 オレーグ・スヴャトスラーヴィチは、義兄弟にあたるロスティスラーヴィチ兄弟や、ルーツク公ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチと同盟。かれらはチェルニーゴフを蹂躙するが、結局スヴャトスラーフ・フセヴォローディチと単独講和。残されたオレーグ・スヴャトスラーヴィチは、弟たちとスタロドゥーブを攻囲するも、陥とせず。
 逆にノーヴゴロド=セーヴェルスキーを攻囲され、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチとの講和を余儀なくされた。

 1176年、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチとともにキエフに侵攻し、ロマーン・ロスティスラーヴィチを追う。

 1177年、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチキエフ大公に返り咲く。多くの学者が、これを機にスヴャトスラーフ・フセヴォローディチはチェルニーゴフを一族の誰かに譲り渡したと考えている(そう考えない者もいる)。問題は譲り渡した相手で、弟のヤロスラーフ・フセヴォローディチとする説と、オレーグ・スヴャトスラーヴィチとする説とがある。
 兄から弟へ、というのは確かにあり得るし、その後ヤロスラーフ・フセヴォローディチチェルニーゴフ公であったことも事実だろう。しかしここまでのスヴャトスラーヴィチ一族の慣習からすると、最年長者がチェルニーゴフ公、次の年長者がノーヴゴロド=セーヴェルスキー公となっている。オレーグ・スヴャトスラーヴィチはどう考えてもヤロスラーフ・フセヴォローディチより年長だと思われる。1164年のいきさつもあったし、チェルニーゴフ公位を継いだのはオレーグ・スヴャトスラーヴィチだったのではないだろうか。

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