リューリク家人名録

ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチ «ムードルィー»

Ярослав Владимирович "Мудрый"

ロストーフ公 князь Ростовский (987-1010)
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1010-36)
キエフ大公 великий князь Киевский (1016-18、19-54)

生:978
没:1054.02.19−ヴィーシュゴロド

父:キエフ大公ヴラディーミル偉大公 (キエフ公スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチ
母:ログネーダ (ポーロツク公ローグヴォロド)

結婚①:
  & アンナ

結婚②:1019?−ノーヴゴロド
  & インゲゲルド/イリーナ 1000?-50 (スウェーデン王オロフ課税王)

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不明
?イリヤーノーヴゴロド
インゲゲルドと
1ヴラディーミル1020-52ノーヴゴロド
2アナスタシーヤ1023-96アンドラーシュ1世1015-60ハンガリー王
3イジャスラーフ1024-78トゥーロフゲルトルーダ-1108ポーランド王ミェシュコ2世
4エリザヴェータ1025-67?ハーラル3世苛烈王1015-66ノルウェー王
5スヴャトスラーフ1027-76チェルニーゴフ
6フセーヴォロド1030-93ロストーフマリーヤ?-1067皇帝コンスタンティノス9世・モノマコス
7イーゴリ1034-60ヴォルィニクーニグンデオルラミュンデ伯
8ヴャチェスラーフ1036-57スモレンスク
9アンナ-1076/89アンリ1世1009-60フランス王
ラウール・ド・クレピ-1074ヴァロワ伯

第5世代。洗礼名ゲオルギー。

 生年ははっきりしないが、年代記は享年を76としている。とすると978年(あるいは977年)の誕生ということになる。しかし、同じく年代記はヤロスラーフをログネーダの3人目の男子としている(と言うより、正確には、3番目に名を挙げている)。とすると、どう早く見積もってもその生年は980年代前半ということになるだろう。少なくともスヴャトポルクイジャスラーフよりも年少ということになるから、980年代前半というのは妥当なところだろう。
 他方で年代記は1016年にヤロスラーフが28だったとしており、それによると988年(あるいは987年)の誕生ということになる。父は988年か990年(はっきりしない)にビザンティン皇女と結婚してキリスト教徒となっており、父とログネーダとの関係はこの時に完全に切れたので、ヤロスラーフがこの時までに生まれていたのは確かだろう。
 もっとも、ヤロスラーフがログネーダの子だとする年代記の記述に疑念を差し挟む向きもある。とするとその生年は980年以前でも990年以降でもいいことになってしまう。しかしヤロスラーフはヴィシェスラーフの跡を継いでノーヴゴロド公となっている。ノーヴゴロドがルーシ第2の都市であったことからしても、ヤロスラーフはヴィシェスラーフよりは年少で、しかし他の兄弟たちよりは年長であったと考えてまず間違いはあるまい。
 結局、ヤロスラーフの生年は980年代前半(あるいは半ば)と見ていいのではないだろうか。

 987年(988年)、父が諸子をルーシ各地に派遣する。ヤロスラーフもこの時ロストーフの統治を委ねられた。
 しかしヤロスラーフはこの時、どう考えてもまだ10歳にもならず、もし「1016年に28歳」説を採るなら、あるいはまだ生まれていなかったかもしれない。もちろん、父が諸子をルーシ各地に派遣したのが987年(988年)というのも、年代記の987年(988年)の項にそう記述されているからにすぎない。しかも「この年にそうした」と書かれているわけではないので、別の年の出来事と考えることもできる(どう考えてもまだ生まれていないか、生まれたばかりの子についても「〜〜を統治させた」と記されている)。
 ヤロスラーフはロストーフに都市ヤロスラーヴリを建設したと言われるが、ヤロスラーフがまともに父の統治の助けとなったのは、どう早く見積もっても世紀が変わってからだろう。

 正確な年代は不明ながら、1010年前後の時期に、長兄ヴィシェスラーフが死去。ヤロスラーフは父により亡兄の替わりにノーヴゴロドの支配を委ねられる。ヤロスラーフより年長と思われるイジャスラーフはすでに死んでいた。同じく年長と思われるスヴャトポルクはその出自に問題があったので、あるいはそれが忌避されたのかもしれない。スヴャトポルクは1013年には父と対立して監視下に置かれることになったので、あるいはヴィシェスラーフの死はその後のことかもしれない。
 ヤロスラーフはノーヴゴロドとキエフの政治的・経済的対立に巻き込まれ、父と対立。1014年、南ルーシからの独立を図り、税の貢納を拒否するに至る。

 1015年、ノーヴゴロド遠征への出発を目前に、父が死去。ヴィーシュゴロド公スヴャトポルク・オカヤンヌィーが後を継ぐ。
 スヴャトポルク・オカヤンヌィーは古いルーシの神々を信奉し、キリスト教を信じるヤロスラーフと対立。1016年、ヤロスラーフはリューベチ河畔の戦いでスヴャトポルクを破り、キエフを占領。
 しかしポーランドに亡命したスヴャトポルクは、1018年、ポーランド軍を率いて帰還。ブグ河畔の戦いでスヴャトポルクは勝利を収める。1019年、ヤロスラーフは再度スヴャトポルクを破る。

 1021年、ポーロツク公ブリャチスラーフ(兄イジャスラーフの子)がノーヴゴロドに侵攻。ヤロスラーフはこれを破る。
 1023年、トムタラカーニ公ムスティスラーフ勇敢公(弟)がキエフに侵攻。1024年、ヤロスラーフはムスティスラーフ勇敢公に敗北を喫する。ムスティスラーフ勇敢公との戦いは長引き、1026年、ヤロスラーフはムスティスラーフ勇敢公との協定を余儀なくされる。それによると、ドニェプルを境に、西岸をヤロスラーフが、東岸をムスティスラーフ勇敢公が支配することになった。

 1028年、デンマーク王クヌード大王に敗れたノルウェー王聖オーラフ2世を迎える?
 1030年、リーヴ人とチューディ人を屈服させ、ユーリエフ(ドイツ語名ドールパト/デルプト、現タルトゥ、エストニア)を建設。さらにその北東のヴォルガ河畔にヤロスラーヴリを建設。ちなみに前者はかれの洗礼名ゲオルギー=ユーリーに、後者はかれの異教名ヤロスラーフにちなんで名づけられている。
 1030年、オーラフの子マグヌス(のちのノルウェー王1世善良王)と異父弟ハーラル(のちのノルウェー王3世苛烈王)を迎える?
 1030年代、ルテニア(ガリツィア、1018年に失われた地)を征服し、ポーランドに侵攻。
 1030年代、ハンガリー王聖イシュトヴァーン1世により、父ヴァーゾイの目をつぶされたアンドラーシュ(のちのハンガリー王1世)がキエフに亡命してくる。

 1036年、ムスティスラーフ勇敢公の死で、国土を再統一(ただし、ポーロツク公ブリャチスラーフ・イジャスラーヴィチは、事実上の独立を維持する)。
 1036年、キエフ近郊に侵攻したペチェネーグ人を撃破する(ペチェネーグ人による最後のキエフ侵攻。以後、脅威はポーロヴェツ人となる)。
 1038年から、ビザンティン帝国、リトアニア人、フィンランド系諸族に対する戦争を1042年まで続ける。
 1043年、長男ヴラディーミルをビザンティン遠征に派遣するが、失敗。おそらくこの後始末としてだろう。1046年頃に、息子フセーヴォロドを、皇帝コンスタンティノス9世・モノマコスの娘(?)と結婚させる。

 1051年、コンスタンティノープルにより府主教座の設立が許可され、主教会議は初代キエフ府主教にロシア人修道士イラリオーンを選出する。

 息子たちにルーシを分領として分割相続させ、ルーシの封建的分割の基礎をつくる。
 かれの生前は、長男ヴラディーミルノーヴゴロド、次男イジャスラーフトゥーロフ、三男スヴャトスラーフヴラディーミル(=ヴォルィンスキー)を統治させた。
 その死に際して、次男イジャスラーフキエフを、三男スヴャトスラーフチェルニーゴフを、四男フセーヴォロドペレヤスラーヴリを、五男(?)イーゴリヴラディーミル(=ヴォルィンスキー)を、六男(?)ヴャチェスラーフスモレンスクを分け与える。その他の地域(たとえばロストーフ)をどうしたのかは年代記からはわからないが、あるいはイジャスラーフに一括して支配させたか、それとも兄弟に分割させたか。
 いずれにせよ、ポーロツク公フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチを加え、ルーシは分割されることになった。

 かれの治世、聖ソフィア大聖堂が建設される。ギリシャ語文献をスラヴ語に翻訳させたり、年代記執筆を支援したりする。

 弟スディスラーフを24年間牢屋に閉じ込めていた。

 聖ソフィア大聖堂に葬られる。
 添え名の «ムードルィー» は「賢い」という意味。
 なお、かれは、墓碑銘では цесарь(カエサル)、府主教イラリオーンからは каган (大ハーン) と呼ばれている。

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