ヴィシェスラーフ・ヴラディーミロヴィチ
Вышеслав Владимирович
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (988-1010?)
生:978頃
没:?
父:キエフ大公ヴラディーミル偉大公 (キエフ公スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチ)
母:?
結婚:?
子:?
第5世代。ヴラディーミル偉大公の長男。
年代記によると母は «チェコ人»。
しかしタティーシチェフ、そしてソロヴィヨーフも、ヴィシェスラーフ・ヴラディーミロヴィチの母は、父の最初の妻、ヴァリャーギの娘オラヴァ(オロヴァ)だとしている。それはつまり、ヴィシェスラーフ・ヴラディーミロヴィチがヴラディーミル偉大公の長男である、との考えに基づくものだが、実はヴィシェスラーフ・ヴラディーミロヴィチが長男であったかどうかについては特段の確証があるわけではない(『原初年代記』は「年長の」という形容詞をつけている)。
とはいえ、ヴィシェスラーフ・ヴラディーミロヴィチがノーヴゴロド公であり、キエフ大公となる前は父がまさにノーヴゴロド公であった事実からすると、ルーシ第2の都市ノーヴゴロドを委ねられたヴィシェスラーフ・ヴラディーミロヴィチが長男であったとする説は非常に説得力がある(年代記でも兄弟の筆頭に挙げられている)。
ヴィシェスラーフ・ヴラディーミロヴィチが長男であるとすれば、スヴャトポルク・オカヤンヌィーやログネーダの子らよりも年長ということになる。スヴャトポルク・オカヤンヌィーよりも年長ということは、父がキエフ大公となる前、ログネーダの子らよりも年長ということは、父がポーロツクを占領する前ということである。どちらの出来事も確かな年代は不明だが、おおよそ977年頃から980年までのいずれかに起きたと考えられる。
つまりヴィシェスラーフ・ヴラディーミロヴィチは、おそらくは父がまだノーヴゴロド公だった時、970年代の後半に、ノーヴゴロドで生まれたのではないかと想像される(だからこそタティーシチェフは、母親は «チェコ人» ではなくヴァリャーギの娘だと考えたのだろう)。
988年(987年)、父が諸子をルーシ各地に派遣した際には、ノーヴゴロドを委ねられた。とはいえ当時はせいぜい10歳。父を補佐してきたドブルィニャがそのままヴィシェスラーフ・ヴラディーミロヴィチを補佐したとする説もある。
なお、988年(990年)、父はキリスト教に改宗し、息子たちも改宗させた。ヴィシェスラーフ・ヴラディーミロヴィチもキリスト教徒として洗礼を受けたはずだが、洗礼名はいまに伝わっていない。
死去の年も不明。
一般的には1010年から1013年のあいだとされているようだが、異説もある。いずれにせよ、1015年の父の死よりも前で、ヴィシェスラーフ・ヴラディーミロヴィチの死後は、ノーヴゴロド公に弟のヤロスラーフ賢公が就いた。
なお、北欧の『オラフ・トリュグヴァソンのサガ』で言及されるヴィッサヴァルド Vissavaldr がこのヴィシェスラーフ・ヴラディーミロヴィチと同一人物だとする説がある(ただしフセーヴォロド・ヴラディーミロヴィチと同一視する説の方が一般的だろう)。