フセーヴォロド・ヴラディーミロヴィチ
Всеволод Владимирович
ヴラディーミル=ヴォルィンスキー公 князь Владимирский (987-)
生:?
没:?
父:キエフ大公ヴラディーミル偉大公 (キエフ公スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチ)
母:ログネーダ (ポーロツク公ローグヴォロド)
結婚:?
子:?
第5世代。
生年は不詳。ただしログネーダ・ローグヴォロドヴナの子として、年代記では4番目に名前を挙げられている。この順番がそのまま長幼の順であるならば、フセーヴォロド・ヴラディーミロヴィチは父と母との間に生まれた四男(末男)ということになる。
ログネーダ・ローグヴォロドヴナは父がキエフ大公となった年にその妻(妾?)とされている。父がキエフ大公となった年については、978年、979年、980年とはっきりしないが、単純に毎年母が男子を生んでいたとすると、フセーヴォロド・ヴラディーミロヴィチの生年は982年から984年ということになる。両親の間には女子も生まれていたことも考え合わせてみると、フセーヴォロド・ヴラディーミロヴィチの生年はむしろもっと遅かったのではないだろうか。
父は988年頃にビザンティン皇女と結婚し、ちょうどその頃ログネーダ・ローグヴォロドヴナはポーロツクに赴いている。とすれば、フセーヴォロド・ヴラディーミロヴィチ生年の下限もこの辺りに求められよう。
おおよそのところ、980年代半ばと見ておいていいのではないだろうか。
988年(987年)、父が諸子をルーシ各地に派遣した際に、フセーヴォロド・ヴラディーミロヴィチはヴラディーミル=ヴォルィンスキーを与えられた。
ただし、これは年代記に988年(987年)の記事として書かれているが、「988年(987年)にあった出来事」として書かれているわけではない。たとえルーシ分割自体はこの年の出来事であったとしても、それがそのままフセーヴォロド・ヴラディーミロヴィチがヴラディーミル=ヴォルィンスキー公となったのも988年(987年)だ、ということにはならない。と言うのも、当時まだ幼年(と言うか生まれたばかり?)と考えられる聖ボリースや聖グレーブまでもこの年に分領をもらったと書かれているが、多くの歴史家もかれらが実際に分領をもらったのは世紀が変わってからではないかと考えている。
フセーヴォロド・ヴラディーミロヴィチは当時、せいぜい5歳ぐらい。おそらくはそれよりも幼かっただろうと想像される。とすると、実際にヴラディーミル=ヴォルィンスキーが与えられたのは聖ボリースや聖グレーブと同時期、世紀が変わってから、と考えた方がいいようにも思われる。
もちろん、長兄と思われるヴィシェスラーフ・ヴラディーミロヴィチですらまだ10歳になるかならぬか、であったのだから、幼年を理由に分領が与えられなかった、という事態も考えづらいとも言える。とすれば、まだよちよち歩き(はいはい?)のフセーヴォロド・ヴラディーミロヴィチも実際に988年(987年)にヴラディーミル=ヴォルィンスキーを与えられていたのかもしれない。
ヴラディーミル(=ヴォルィンスキー)という都市名が年代記で最初に言及されるのが989年の記事において。あるいはフセーヴォロド・ヴラディーミロヴィチによって建設されたのかもしれない。もちろん実際には父親が建設し、そのためヴラディーミルという名が与えられたのだろう。
いずれにせよ、フセーヴォロドについて(はっきり)わかっているのは、名前と、両親と、ヴラディーミル=ヴォルィンスキーの公だったという3点のみ。没年すらわからないが、父の死後には一切名が見えないので、父に先立ったのはまず間違いあるまい。
なお、北欧の『オラフ・トリュグヴァソンのサガ』で言及されるヴィッサヴァルド Vissavaldr がこのフセーヴォロド・ヴラディーミロヴィチと同一人物だとする説がある。