リューリク家人名録

リューリク

Рюрик

ラードガ公 князь Ладожский (862-864/866)
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (862/864/866-879)

生:?
没:879

父:?
母:?

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
エファンダとの子?
1イーゴリ-945キエフ大公オリガ-969

第1世代。リューリク家の祖。

 リューリクという名は、ゲルマン系の言語で解読することが可能である。ある文献には、古高ドイツ語で Hrodric、古ノルド語東部方言で Rørik、古ノルド語西部方言で Hrœrekr、ルーン石碑の碑文で rorikR/ruRikr/hruRikR と書かれる、とある。

 『ルーシの公ヴラディーミルへの弔辞と賛辞』に次のような一節がある。

……。また書いた。いかに神の恩寵が、イーゴリの孫、スヴャトスラーフの息子、ルーシの公ヴラディーミルの心に光を当てたか。……。

 『ルーシの公ヴラディーミルへの弔辞と賛辞』は、いくつかの部分から成っており、その最古の部分は11世紀半ばに書かれたものと学者によって考えられている(『原初年代記』より早い)。問題は、引用した部分においてリューリクの名が欠けている、という点にある。王朝の始祖であるリューリクは、ヴラディーミル偉大公の曽祖父である。ただ一言「リューリクの曾孫」と加えればいいだけなのにそれがない。
 この部分が『原初年代記』(1113)以降に書かれたのであれば、この不審に答えることはできない。しかし11世紀半ばに書かれたのだとすれば、次のように考えることができるだろう。すなわち、11世紀半ばの時点ではリューリクは考え出されていなかった、すなわちそもそもリューリクは存在しなかった、だから書かれなかったのだ、と。とすると、リューリクは11世紀後半に王朝の始祖として考え出された架空の存在だ、ということになる。

なお、『聖なる公ヴラディーミルの生涯』(聖者伝)は、イヴァン雷帝時代に成立したものだが、その基となった部分は、まさに11世紀半ばに書かれたとされる。ここにリューリクの名が記されているので、これがリューリクの名を文字化した最初の史料である、とする歴史書がある。しかしこの聖者伝にはリューリクの招聘譚、その後もほぼ『原初年代記』をなぞったリューリクからヴラディーミルまでの歴史、さらにはリューリクとローマ皇帝オクタウィアヌスとの血縁関係などというどう考えてもでっち上げも含まれている。そもそも「この幸いなるヴラディーミルの17代目の、そしてリューリクからは20代目の子孫にあたる、神に戴冠されたツァーリにして大公イヴァン・ヴァシーリエヴィチの治世に……」などという記述まである。個人的には多分に疑わしいと思う。

 リューリク家の人間は、イーゴリ以降はビザンティンや西欧の同時代史料にもその名が見られる。オレーグすらも、それらしき名がケインブリッジ文書に見られる。しかしリューリクについては、その痕跡すらどこにも見つからない(フリースランドの王ロリクについては後述)。
 根拠はほかにいくらでもあるが、このようなことからリューリクは架空の存在ではないか、とする主張が古くからある。
 もっとも、架空説を立証することは不可能であろう(存在しないことを証明するのは事実上不可能である)。よって、とりあえず以下、リューリクが実在したとして検討する。

 先ず、内容的にもっとも素朴な形を伝えていると見られるノーヴゴロド第一年代記より。

キイ、シチェク、ホリフの時代、ノーヴゴロドの人々はスロヴェーネ、クリヴィチー、メーリャと呼ばれ、土地を持っていた。スロヴェーネは自身の、クリヴィチーは自身の、メーリャは自身の。それぞれが自身の一族を支配し、チューディは自身の一族を支配し、かれらは男は冬リス一頭づつヴァリャーギに貢納していた。ヴァリャーギはかれらの中に住み、スロヴェーネ、クリヴィチー、メーリャ、チューディに圧迫を加えていた。スロヴェーネ、クリヴィチー、メーリャ、チューディはヴァリャーギに対して立ち上がり、海の彼方へと追いやった。そして自ら治め、都市をまとめだした。しかし自ら戦い始め、かれらの間に大きな戦闘と内訌があった。都市は都市に襲い掛かり、«プラヴダ» がなかった。自らに言った『われらを治め、公正に裁いてくれる公を探そうではないか Поищем князя, который владел бы нами и судил по справедливости.』。海の彼方へヴァリャーギのもとへ赴いて言った『われらの地は偉大にして豊かだが、秩序がない。われらのもとに、われらを治めに来てはくれまいか Земля наша велика и обильна, а наряда у нас нет; пойдите к нам княжить и владеть нами.』。こうして三人兄弟が自らの一族とともに呼ばれ、多数の従士団を引き連れノーヴゴロドにやって来た。長男がノーヴゴロドに、かれの名はリューリクといい、次がベロオーゼロに、シネウスが、そして三人目がイズボルスクに、かれの名はトルヴォルであった。このヴァリャーギ、来訪者たちからルーシと呼ばれるようになり、ルーシの地で通るようになった。ノーヴゴロドの人々は、こんにちにいたるまでヴァリャーギの一族の出である。
  二年後、シネウスと弟トルヴォルが死に、リューリクひとりが兄弟たちの領土に権力を確立し、独りで統治し始めた。かれには息子が産まれ、イーゴリと名付けた。イーゴリは成長すると、賢く勇敢になった……。

 ノーヴゴロド第一年代記も『原初年代記』も、おそらく同じ先行史料(あるいは同じ伝承)を基にしているものと思われる。その『原初年代記』を、ラヴレンティイ年代記より。こちらの方は手が加えられている印象が強い。

6367年(858-859)。海の彼方のヴァリャーギがチューディ、スロヴェーネ、メーリャ、クリヴィチーから貢納を取り立てた。ハザールはポリャーネ、セヴェリャーネ、ヴャーティチから一戸あたり銀貨かリスを取り立てた。
 6370年(861-862)。ヴァリャーギを海の彼方に追った。かれらに貢納を収めず、自身で支配を始めた。しかしかれらの間に «プラヴダ» がなく、一族が一族に対して立ち上がった。内訌があり、互いに戦い始めた。自らに言った『われらを治め、正義に基づき裁いてくれる公を探そうではないか Поищем себе князя, который управлял бы нами и судил по праву.』。海の彼方へヴァリャーギのもとへ、ルーシのもとへ赴いた。他のヴァリャーギがスウェーデン人、別のヴァリャーギがノルマン人やアングル人、さらに別のヴァリャーギがゴトランド人と呼ばれていたように、このヴァリャーギはルーシと呼ばれていた。ルーシにチューディ、スロヴェーネ、クリヴィチー、ヴェーシが言った『われらの地は偉大にして豊かだが、そこには秩序がない。われらを支配し治めに来てくれまいか Земля наша велика и обильна, а наряда в ней нет. Приходите княжить и управлять нами.』。こうして三人兄弟が自らの一族とともに選ばれ、全ルーシを引き連れて、やって来た。長男リューリクはノーヴゴロドに、次のシネウスはベロオーゼロに、三人目のトルヴォルはイズボルスクに住んだ。このヴァリャーギからルーシの地の名で呼ばれるようになった。ノーヴゴロド人というのは、ヴァリャーギの一族出身の人々であり、かつてはスロヴェーネであった。二年後、シネウスとトルヴォルが死んだ。こうしてリューリクひとりがすべての権力を握り、部下たちに都市を分配し始めた。あるいはポーロツクを、あるいはロストーフを、あるいはベロオーゼロを。ヴァリャーギはこれらの都市では代官である。ノーヴゴロドのもともとの住人はスロヴェーネであり、ポーロツクの住人はクリヴィチー、ロストーフの住人はメーリャ、ベロオーゼロの住人はヴェーシ、ムーロムの住人はムロマーであるが、そのすべての上にリューリクが君臨したのである。かれにはふたりの部下がいた。かれの親族ではないが、ボヤーリンで、かれらは自らの一族とともにコンスタンティノープルに向かった。ドニェプル沿いに向かうと、山の上に小さな都市を見つけた。聞いた『これは誰の都市だ?』。答えた『三人兄弟がいた。キイ、シチェク、ホリフである。この都市を建てて死んだ。われらはかれらの子孫で、ここに住んでいるが、ハザールに貢納している』。アスコリドとディールはこの都市に残り、多くのヴァリャーギを集め、ポリャーネの地を支配し始めた。リューリクはノーヴゴロドに君臨していた。
 6374年(866-867)。アスコリドとディールはギリシャ人との戦争を始め、ミカエルの治世14年目にかれらのもとに赴いた。皇帝は当時サラセン人への遠征に赴いており、黒い川にまでいたっていたが、ルーシがコンスタンティノープル遠征に来たことを主教が知らせると、皇帝は引き返した。かれらは金角湾の中に入ってきて、多くのキリスト教徒を殺し、200艘の船でコンスタンティノープルを攻囲した。皇帝は苦労してコンスタンティノープルに入城し、一晩中総主教フォティオスとともに聖母教会で祈りを捧げた。そして歌を歌いながら聖母の聖衣を持ち出し、その裾を海に浸した。静かで海は穏やかだったが、突然風とともに嵐が吹き始め、巨大な波が起こり、無神のルーシの船を散らして岸に打ちつけ、破壊した。この災難から逃れて帰郷することができたのは多くはなかった。
 6376年(867-868)。バシレイオスの治世が始まった。
 6377年(868-869)。ブルガールの地すべてが洗礼を受けた。
 6387年(878-879)。リューリクが死に、公位を一族のオレーグに譲った。息子イーゴリはまだ幼かったため、オレーグの手に委ねた。

ミカエルの治世14年目とは855年。治世26年目にバシレイオスに殺された。ただしルーシのコンスタンティノープル遠征は860年のこと。

 続いて、これとはまったく異なる伝承をヨアキーム年代記より。ヨアキーム年代記そのものは現存せず、タティーシチェフが著書『ロシアの歴史』の中で引用しているだけである。タティーシチェフのでっち上げという可能性は否定できないが、もしタティーシチェフの言うことを信じるならば、現存するルーシ最古の年代記である(『原初年代記』原本よりも80年以上前に書かれたことになる)。

ゴストムィスルには四人の息子と三人の娘がいた。息子たちは戦で殺されたり、家で死んだりして、ひとりも残らなかった。娘たちは近隣の公たちに嫁に行った(21)。ゴストムィスルと人々はこのことに大変心を痛め、ゴストムィスルは Колмогард に、神に遺産について尋ねに行った。高い場所(22)に上ると、多くの犠牲を捧げ、預言者たちに贈り物をした。預言者たちはかれに答えた。神はかれに、かれの女の腹から遺産を与えることを約束していると。しかしゴストムィスルはこれを信じなかった。何となれば、かれは年老いて、妻も産むことはない。ゆえに Зимеголы (23)に人をやって預言者に尋ねさせた。かれの子孫がかれから遺産を相続するにはどうすればいいのか、と。このすべてを信じることができず、悲しみに沈んだ。しかし眠れるかれに、ある午後、夢が訪れた。中の娘ウミラの腹から豊かに実った樹木が生え、ヴェリーキイな都市全体を覆い、全土の人々(24)がこの実りに満たされた。夢から目覚め、預言者を呼び寄せ、この夢を語った。かれらは言った『彼女の息子からかれを継ぎ、地はかれの公により豊かになるだろう』。誰もが、長女の息子が継がないことに喜んだ、と言うのも、役立たずだったからだ。ゴストムィスルは、自らの人生の終わりを感じ、土地のすべての長老をスラヴ、ルーシ、チューディ、ヴェーシ、メーリャ、クリヴィチー、ドレゴヴィチーから呼び集め、夢見を伝えて、選ばれた者をヴァリャーギのもとに派遣して公を求めさせた。こうしてゴストムィスルの死後リューリクがふたりの弟や一族とともにやって来た。(以下、タティーシチェフは省略している)
 弟たちの死でリューリクは全土を支配し、誰とも戦をおこなわなかった。公となって四回目の年、古いヴェリーキイな都市からイリメニへ新しい都市に移り、祖父がしたように、統治に熱意を示した。裁きが公正であるよう、すべての都市にヴァリャーギとスラヴ人から公を配置し、自身はギリシャ語のアルヒクラトールやバシレウス(25)に相当する大公を名乗り、その他の公は補助であった。自身の父の死により、ヴァリャーギをも支配し、かれらから貢納を受け取った(26)。
 リューリクには幾人かの妻がいたが、誰よりもウルマン人(27)の公の娘エファンダを愛した。彼女が息子イーゴリを産むと、約束していた海沿いの都市イジョーラを与えた(28)。
 ドニェプル沿いに住むスラヴ人はポリャーネとゴリャーネと呼ばれていたが、キエフその他を支配するハザールに圧迫され、重い貢納を取られ、労働に疲れさせられ、リューリクに長老たちを派遣して、息子か誰か公をかれらに派遣してくれるよう要請した。かれはかれらにオスコリド(29)と戦士を送り出した。オスコリドはキエフを支配し、戦士を集めて、ハザールに勝ち、続いて船でコンスタンティノープルに向かったが、嵐がかれの船を破壊した。戻ると、コンスタンティノープルの皇帝のもとに使節を派遣した。(この後をタティーシチェフは省略している)
 リューリクは、オスコリドを派遣すると、病気に陥り疲れ果てるようになった。息子イーゴリが幼すぎるので、公位と息子を、妻の兄弟であるオレーグ(30)に委ねた。オレーグは純粋なヴァリャーグであり、ウルマン人の公であった。

(タティーシチェフによる注:抜粋)
21 ゴストムィスルの娘たちが誰の嫁となったか、正確には不明だが、下に見えるように、長女はイズボルスクに嫁に行き、公妃オリガが生まれた。別の娘がリューリクの母であり、三人目は不明である。ネーストルが言うには、リューリクはスラヴ人の公ヴォディームを殺し、人々に騒動が起こった。あるいはこれもゴストムィスルの孫であり、長女の息子であったかもしれない。つまりより正統な相続権を有し、ゆえに殺されたのだろう。
23 (割愛、下記引用者注参照)
26 リューリクはフィンランドも支配した。
27 ウルマニアはスウェーデンの一地方に違いない。おそらくバイエルであろう。(下記引用者注参照)
29 オスコリド。ヨアキームはリューリクの息子とは述べていないが、状況的にそうであろう。キエフ市民が息子を求めたのであるから。イーゴリは当時まだ生まれていなかったか、揺り籠の中だった。オスコリドはリューリクの妃にとっては継子であるが、これをサルマート語では tirar という。この言葉を知らないネーストルがディールなる名を考えつき、オスコリドとディールという二人の人物の名としてしまったのである。
30 オレーグはリューリクにとって妻の兄弟であった。ネーストルは一族とのみ述べている。写本ではイーゴリの母の兄弟。一部ではイーゴリの叔父、これすなわち父の兄弟だが、これは合致しない。ここで提示されている説の方が正しい。これにより明らかなのは、オレーグの生涯の執筆者はヨアキームの年代記を読み、その出生と結婚について寓話で歪めてしまったのである。ここでイーゴリの母の名がエファンダとされているが、後に息子ウレーブの嫁が同じ名を名乗っているのは、あるいは、イーゴリが母への愛情からそのように名付けたのかもしれない。この名はノルマン系である。

(引用者による注)
 Колмогард とは、どう考えても古ノルド語で Holmgarðr。北欧のサガやルーン石碑などでは、ノーヴゴロドがこう呼ばれている。ちなみにルーシの地は Garðaríki (「砦の国」)、Austrvegr (「東の道」)、Austrlönd (「東の地」)などと呼ばれている。さらにちなみにラードガは Aldeigjuborg、キエフは Kœnugarðr と呼ばれている。ただし北欧のサガやルーン石碑が、どの程度9世紀の状況を伝え残しているかは別問題。
 Зимеголы とは、おそらくラトヴィア語でゼムガレ、ラテン語でセミガリア、ドイツ語でゼムガレンと呼ばれる地域(に住む人々)のことであろう。現ラトヴィアの南中部である。タティーシチェフによれば、神託で有名だったらしい。
 ウルマン人とは、おそらくノルマン人のこと。つまりヴァリャーギのことである。

 以上の伝承を整理すると、リューリクはヴァリャーグ。シネウストルヴォルというふたりの弟とともに一族を引き連れ、セヴェリャーネ、クリヴィチー、ヴェーシ、チューディに招かれてノーヴゴロドにやって来た。リューリク自身はノーヴゴロドを、シネウスはベロオーゼロを、トルヴォルはイズボルスクをそれぞれ支配したが、二年後に弟たちが死ぬと、リューリクが唯一の支配者となった。
 『原初年代記』によればリューリクの一族が «ルーシ» と呼ばれているが、ヨアキーム年代記によればリューリクたちを招聘した人々の中にルーシがいることになっている。なお、ヨアキーム年代記は、リューリクたちを招聘した人々の中にはほかにメーリャやドレゴヴィチーもいたとしている。
 『原初年代記』によると、リューリクがノーヴゴロドにやって来たのは862年。

 考古学的な調査の結果、ノーヴゴロド最古層の遺跡は10世紀のものとされている。リューリクがやって来た時、ノーヴゴロドはまだ存在していなかった。それどころか、リューリクの跡を継いだオレーグが死んだ時点でも、おそらく、ノーヴゴロドはまだ存在していなかった。もちろん、9世紀の遺跡が出土していないからと言って、それだけで「ノーヴゴロドは9世紀にはまだ存在していなかった」と結論づけるのは早計である。まして、考古学が明らかにしているのは「こんにちノーヴゴロドの市域となっている土地には、9世紀以前の人類居住の痕跡が残っていない」というだけのことである。とはいえ、考古学的な成果を無視することもできない。
 考えてみれば、ノーヴゴロド Новгород とはそもそも «新しい都市 новый город» の意である。新しい都市とはすなわち、どこかに別の «古い都市» があったはずである。9世紀にノーヴゴロドが存在しなかったとすれば、リューリクがやって来たのはこの «古い都市» ではないか。考古学的な成果から、9世紀、この地域でノーヴゴロドに先行して存在していたことが確かな都市は、ラードガとゴロディーシチェぐらいである。
 上で引用したヨアキーム年代記も、ゴストムィスルのいた都市、すなわちリューリクが招聘された都市を «ヴェリーキイな都市 Великий град» と呼んでいるが、それとは別に Колмогард なる都市を挙げている。Колмогард とは、どう考えても古ノルド語で Holmgarðr、すなわちノーヴゴロドのことである。リューリクは公となって4年目に、古い «ヴェリーキイな都市» からイリメニ湖畔の新しい都市に遷ったとされているが、この新しい都市こそその名の通りノーヴゴロドであったろう。
 ヴォスクレセンスキイ年代記などは、ゴストムィスルが支配していた都市もリューリクがやって来た都市もともにノーヴゴロドであったと明記しているが、上述のような理由から、多くの学者がノーヴゴロド以外の都市を «ロシア最初の首都» と見なしている。イパーティイ年代記による『原初年代記』やケーニヒスベルク年代記はこの都市をラードガだとしているが、ゴロディーシチェだと考える学者も少なくない。

ラードガは、こんにちスターラヤ・ラードガと呼ばれている集落。ヴォルホフ河がラードガ湖に注ぎ込む辺りにある。さらに下流の河口部にノーヴァヤ・ラードガがある。考古学的な調査によると、8世紀半ばにラードガを建設したのはヴァリャーギ。かれらがここを «アルデイギャ/アルデイギュボルグ» と呼び、かれらに遅れてこの地にやってきたスロヴェーネがなまってラードガと呼ぶようになった。
 ゴロディーシチェは、こんにちリューリコヴォ・ゴロディーシチェと呼ばれている遺跡(廃墟)。リューリクの到来した都市ということで、19世紀からこう呼ばれるようになった。ノーヴゴロドの中心部から南にわずか2キロのところにある。最古層の遺跡は紀元前にまで遡るが、砦が築かれたのは8世紀と考えられる。砦を築いたのはスロヴェーネだが、9世紀に入るとここでもヴァリャーギの痕跡が顕著になる。

 リューリクはなぜノーヴゴロド、あるいはラードガ、あるいはゴロディーシチェ、あるいはどこか別の都市に来たのだろうか(面倒なので以下ノーヴゴロドで統一)。ノーヴゴロド第一年代記とラヴレンティイ年代記は、ノーヴゴロドのスラヴ人・フィン人連合が招聘したとしている。これが一般的に知られるものだが、言わばその変形がヨアキーム年代記であろう。すなわちここでは、ゴストムィスルなるスラヴ人・フィン人連合の指導者の名が記されている。同様に、グストィン年代記も、死に臨んだゴストムィスルがルーシの地マリボルク市に赴いて公を招くよう人々に遺言したとしている。このようにルーシの年代記は、スラヴ人・フィン人の側がリューリクを招聘した、という点で一致している。
 ではその指導者とされるゴストムィスルは実在したのか。9世紀のフランク帝国について第一級の史料となっているふたつの年代記が、844年の項目にそれぞれ次のような記事を載せている。

ルートヴィヒ・ドイツ人王は叛逆しようとしていたオボドリート人を戦で破り、王 Goztomuizli は殺された。(フルダ年代記)
同じ時、ルートヴィヒ・ドイツ人王は Winithos (オボドリート人)に進軍し、名を Gestimus というその王の一人が殺された。(クサンテン年代記)

ルートヴィヒ・ドイツ人王(806-876)は、ルイ敬虔帝(778-840)の三男にして、シャルルマーニュの孫。840年の父の死後、兄・弟とフランク帝国を分割し、このうち東フランク(ドイツ)を相続した。ただし当時の東フランクにはスラヴ人の土地が含まれておらず、その領土はこんにちのドイツよりかなり狭いものだった(ベルリンも元々はスラヴ人の都市である)。
 オボドリート人とは、北東ドイツ(デンマークの南東方)、こんにちのメクレンブルク=フォアポンメルン州に住んでいた西スラヴ人。

 オボドリート人の王の名には、フルダ年代記には異綴として Goztomiuzli、Gozzomuizl が、クサンテン年代記には Gestimulus、Gosimysl がある。これはまさにゴストムィスルである。問題は、このゴストムィスルが、ルーシの年代記の伝えるゴストムィスルと同一人物か否か、である。これについては、他に史料が存在しないので想像することしかできない。しかし常識的に、ノーヴゴロドの長老で当地で死んだゴストムィスルと、オボドリート人の首長で844年にルートヴィヒ・ドイツ人王に敗れて戦死したゴストムィスルとの間に、名前以外に一致する点があるとは思えない。ちなみにこの名の語源が、一般に考えられているように гость(客)と мысль(思考)にあるとすれば、どちらの単語も広くスラヴ系の言語に共通しているから、東スラヴ人とオボドリート人にたままた同時期にこの名の持ち主が出現しても、必ずしも不思議ではない(とはいえやはり珍しい偶然である)。

 ニーコン年代記は、次のような記事を載せている。

6372年(863-864)、ノーヴゴロド市民は腹を立て言った。われらを奴隷にしている、と。リューリクとその一族のために常に多くの悪に苦しんでいる。この年、リューリクはヴァディーム・フラーブルィイを殺した。さらにその他多くのかれのノーヴゴロド人の助言者をも殺した。

 同じくニーコン年代記は、6375年(866-867)、多数のノーヴゴロド市民がリューリクのもとからアスコリドディールのキエフへと逃亡してきた、としている。すなわちこの頃、リューリクの支配に不満を覚えるノーヴゴロド市民が蜂起し、リューリクがこれを弾圧した。あるいは蜂起する前に計画が発覚したのかもしれないが、いずれにせよその中心人物と思われるヴァディーム・フラーブルィイやその同調者たちを殺した。しかしそれによってリューリクに対する不満が解消されるはずもなく、反リューリク派が多数ノーヴゴロドを逃亡した、ということであろう。
 これは十分に考えられることである。ノーヴゴロド第一年代記もラヴレンティイ年代記も述べているが、ノーヴゴロドの人々はそもそもヴァリャーギを追い出していた。混乱が続くからといって再びヴァリャーギを招いてみたものの、やはりその支配を受けるというのは気に入らなかったのであろう。またヨアキーム年代記などが言及するゴストムィスルも、基本的には «公» ではなく «長老» と呼ばれている。つまり君主制ではなく、一種の寡頭共和制を敷いていた、ということではないだろうか。であれば、なおさらリューリクという君主による支配に対する反発も強かったであろう。

 リューリクの素性ははっきりしない。『ヴラディーミル聖者伝』やヴォスクレセンスキイ年代記は、リューリクが初代ローマ皇帝オクタウィアヌスの弟プルスの末裔である、と述べているが、これは常識的に無視していいだろう。
 «海の彼方のヴァリャーギ» であったことは、様々な年代記が一致して伝えている。この «海の彼方のヴァリャーギ» がルーシであったか否かは両説あって確定していないが、ここでは深入りしない。そもそもこの «ヴァリャーギ» なる言葉が具体的にいずれの民族を指していたか、はっきりしない。西欧におけるノルマン人やデーン人が、必ずしもいずれかひとつの民族を指していたわけではない(と思われる)ことから類推すれば、ヴァリャーギもまた実際には複数の民族を指していたであろう。より正確に言えば、「複数の民族を指していた」と言うより、「ルーシの地にやって来た複数の民族を指していた」と言うべきだろう。同じ民族であっても、ルーシの地にやって来ず祖国にとどまっていた人々は、別の言葉で呼ばれていたかもしれない。その意味で、ヴァリャーギという言葉は民族を指す言葉ではなかったのではないだろうか。要は、舟に乗って川を遡り(あるいは下り)、東スラヴ人を襲った人々を無差別にヴァリャーギと呼んだのではないだろうか。その中核を担い、また数的にも多数だったのが北ゲルマン系であったことはまず間違いなかろうが、リューリク個人が北ゲルマン人であったか否かはまた別問題である。
 この仮定から、«海の彼方» からノーヴゴロドにやって来る可能性があった人々を考えてみると、フィン系(フィンランド、北スウェーデン)、北ゲルマン系(南スウェーデン、デンマーク)、西スラヴ系(バルト海南岸一帯)のいずれかであろう。バルト系は陸路かあるいは川伝いであり、海を渡ってくることはない。
 ヨアキーム年代記に「自身の父の死により、ヴァリャーギをも支配し、かれらから貢納を受け取った」との記述があるが、これにタティーシチェフは「リューリクはフィンランドをも支配した」との注をつけている。つまりリューリクの父はフィンランドの支配者だった、と言いたいのだろうか。だとするとリューリクはフィン系ということになろう。
 リューリクという名そのものは古ノルド語(北ゲルマン語)と考えられるが、それはかれの民族的出自とは必ずしも関係ない。とはいえ、スカンディナヴィア各地に残るルーン石碑を見ると、当時無数の北ゲルマン系の人々が東方に赴いていた様子がわかる。そのうちのひとりがリューリクであったというのは、十分に考えられることであろう。もっとも、逆に、北ゲルマン人のひとりが東スラヴ人の地で王となったのならば、それがサガで語られていないのはおかしい、としてリューリクの北ゲルマン説を否定する者もいる。
 ニーコン年代記によれば、リューリクは «из Немець»、すなわち「ドイツから」やって来たという。しかし «Немець» という言葉は元来、スラヴ語では「言葉の喋れない人」を意味し、スラヴ語を話せない人々を無差別に指す言葉だった。やがて特に密接な関係にあったゲルマン系、中でもドイツ人を指す言葉となっていくが、逆にこの言葉の意味が「ドイツ人」に限定されるのは、少なくともロシアでは16世紀以降の話である。ニーコン年代記が書かれたのは、まさにその時代である。ゆえにニーコン年代記の作者が、この言葉をどこまで限定的に使用していたかは必ずしもはっきりしない。
 19世紀フランスの旅行家クサヴィエ・マルミエが、現地の伝承として書き残しているところでは、オボドリート人にはゴドラフという王がおり、かれにはリューリク、シヴァル、トルヴァルという3人の息子がいた。かれらは東方に赴いて、異民族の支配を受けていた人々を救い、ルーシのもとに至った。ルーシはかれらにとどまって公となるよう要請し、リューリクはノーヴゴロド、シヴァルはプスコーフ、トルヴァルはベロオーゼロを支配した。以上の話は、19世紀に収録されたということを考えると、ロシアに伝わっていた伝承を基に後世になってつくられたものではないか。オボドリート人というのは北東ドイツ(デンマークの南東)にいた西スラヴ人である。その王家は神聖ローマ皇帝からメクレンブルク公の称号をもらい、19世紀当時も存続していた(ちなみに2013年現在も存在する)。言うならば、メクレンブルク公家はヨーロッパでも珍しいスラヴ系の «王家» だったのである。ちなみに、スラヴ系の王家はほかに、ロシアのロマーノフ家とセルビアのオブレノヴィチ家 & カラジョルジェヴィチ家、モンテネグロのニェゴシュ家しか存在しない。しかも後の三家は19世紀になって王家となったものであり、その意味でメクレンブルク公家がロシアに特別な感情を抱いたとしてもおかしくはない。もちろん、だからと言ってそれが上掲のような伝説を生むとは限らないのだが。しかしもしリューリクがオボドリート人の出身であったら、その王であったゴストムィスルとの関係など、ニーコン年代記の記述が大きな意味を持ってくるかもしれない。

 リューリクの素性に関して、フランク帝国の歴史を記したベルタン、クサンテン、フルダの三大年代記が、«ロリク Rorik» なる人物について以下のように記している(趣旨のみを、年表風にまとめてみた)。

ドレスタッドはユトレヒトの南東にあった都市。当時フリースランド最大の商業都市であった。ただし、まさにロリクの時代に没落していく。
 ルイ敬虔帝(778-840)はシャルルマーニュ/カール大帝の息子で、フランク王・皇帝(814-840)。かれの死で帝国は三人の息子たち、ロタール1世、ルートヴィヒ・ドイツ人王、シャルル禿頭王により中、東、西に三分割され、統一帝国は崩壊した。ドイツ語ではルートヴィヒ敬虔帝だが、ここではルートヴィヒ・ドイツ人王と区別するためフランス語の発音に従った。
 ロタール1世(795-855)は、ルイ敬虔帝の長男。父の死後、北イタリア、プロヴァンス、アルザス・ロレーヌ、ベネルクスを相続した(840-855)。ロリクの領土であるドレスタッド(フリースランド)はロタール1世の領土であり、ゆえにロリクはロタール1世の臣下ということになる。
 ロタール2世(835-869)は、ロタール1世の次男。父の死後、アルザス・ロレーヌ、ベネルクスを相続した(855-869)。かれにちなんでベネルクスからアルザス・ロレーヌにかけての地域が «ロタリンギア» と呼ばれた。のちにこれがなまってロートリンゲン/ロレーヌとなった。
 シャルル禿頭王(823-877)は、ルイ敬虔帝の末男。父の死後、西フランク(フランス)を相続した(840-877)。ロタール2世の死後、870年に兄ルートヴィヒ・ドイツ人王とロタリンギアを分割。ただしロタリンギアを巡っては、その後もシャルル禿頭王とルートヴィヒ・ドイツ人王との間で綱引きが続いた。
 カール肥満王(839-888)は、ルートヴィヒ・ドイツ人王の末男。父の死後、兄たちと東フランクを分割相続した(876-887)。兄ふたりが相次いで死んだため、その遺領を相続。さらに従兄弟(シャルル禿頭王の子)の死で西フランクをも相続し、カロリング帝国を44年振りに再統一した。

 このロリクをリューリクと同一視する見解が、最近ロシアの史学界では大きな流行になりつつある(ような気がする)。
 上の年表を見てみると、862年と863年の項目に矛盾が生じるものの、おおまかに、フランクの年代記の空白をルーシの年代記が埋めていると言うことができるだろう。フランクの三年代記はいずれも9世紀中に執筆されたと考えられる。すなわち、ほぼ同時代の記録である。これに対してラヴレンティイ年代記(の基となった『原初年代記』)は1116年に書かれたものであり、しかも上で引用した部分でも皇帝ミカエルの治世を間違えており、年代には数年のズレが見られることが多い。この点を考慮すれば、862年と863年の項目の矛盾はラヴレンティイ年代記の間違いとすることで解消されるだろう。
 もしこの仮説が正しいとすれば、リューリクの素性は以下のようになろう。

 9世紀初頭、フランク帝国の圧迫にさらされていたデンマーク人は、民族統一を成し遂げ、同時に周囲に勢力を拡大しつつあった。その勢力拡大の標的のひとつがフリースランドであった。フリースランドとはデンマークから北西ドイツ、オランダを経てベルギーへと続く北海沿岸部であり、とりあえずフランク帝国により制圧されていたが、自立意識が高く、しばしばフランク皇帝の宗主権下に独自の王が立てられていた。
 812年にデンマーク王ヘミングが死ぬと、レギンフレドとハラルド・クラクの兄弟は兄ヘミング(王とは別人)をフランクから呼び戻す。しかし三兄弟は、王ヘミングの伯父であった先王グドフレドの遺児ホリク等によりデンマークを追われた。その後、ホリクとハラルド・クラクとの間で王位を巡る争いが続いた。ルイ敬虔帝と結んだハラルド・クラクは一時は優勢にも立ったが、最終的に827年にデンマークを追われた。ハラルド・クラクのその後については必ずしもはっきりせず、ハラルド・クラクとは別にその甥にハラルドなる人物がおり、これとロリクが兄弟だったのではないかとの説もある。だとすれば、ルイ敬虔帝はハラルド・クラクではなくその甥のハラルド & ロリク兄弟にフリースランドの支配を認めたということだろう。なお、ある年代記がハルフダンの息子ヘミングなる人物に言及しているが、このヘミングがハラルド・クラクの兄のことであるならば、ヘミング、レギンフレド、ハラルド・クラクの三兄弟の父はハルフダンという名であったことになる。ハルフダンなる名はデンマーク王家に見られる名だが、実際800年頃にフリースランドを支配していたと思われるハルフダンも、時のデンマーク王グドフレドの弟ではないかとの説がある。とすると、ヘミング、レギンフレド、ハラルド・クラクの三兄弟はグドフレドの甥、王ヘミングの従兄弟ということになる。だからこそ王ヘミングの死後、三兄弟の長兄ヘミングが王位に推されたのだろう。ちなみに三兄弟にはさらに兄アヌロがおり、実際は四兄弟だった。ハラルド & ロリク兄弟の父は、アヌロ、ヘミング、レギンフレドのうちのいずれかであったろうか。ちなみにアヌロとレギンフレドは810年代初頭には死んでいると考えられるので、ハラルド & ロリク兄弟がこのいずれかの子であるとすると、生年は810年代初頭以前ということになる。
 ルイ敬虔帝の死は840年であるから、ハラルド & ロリク兄弟がフリースランドの支配者として認められたのはそれ以前である。以後860年代まで、840年代初頭(ロタール1世に反逆罪に問われた)と855年頃(ロタール2世が父からフリースランドを与えられた)の短い期間を除いて、20年以上にわたってフリースランドの支配者であった。なお兄ハラルドは、850年以前に死んでいたのだろう。
 ロリクは855年頃にデンマークの一部を支配していたか、あるいは王位を狙って侵攻したか、いずれにせよのちにフリースランドに戻ってきている。
 863年、デーン人(これがデンマーク人と同一であった否かは確定できない)がフリースランドを攻略し、さらにラインを遡ったが、どうやらこれにロリクも同行していたようだ。ヴァイキングに襲われた地元領主が、別の土地にヴァイキングを誘導することは当時普通に行われていた戦略だったので、このロリクの行動も当然のものであった。おそらくヒンクマールはそれを「裏切り」と認識したのだろう。ヒンクマールの書簡が重要なのは、むしろこの書簡が、ロリクが当時すでにキリスト教徒であったことを示唆しているからである。
 863年を最後に、一旦ロリクはフランクの年代記から姿を消す。867年の記事は、フリースランドからロリクが追われている状況を述べているにすぎない。ではロリクはいつフリースランドを追われたのか、フリースランドを追われてどこに行っていたのか。前者の疑問に答えることは不可能だが、後者の疑問に対する答えがルーシの年代記である、とするのが、ロリクとリューリクを同一視する学者たちの主張である。
 ロリクは870年までにはフリースランドに戻り、王権を再建している。しかしフランクの年代記は、873年を最後に最終的にロリクについては沈黙する。882年の記事は、すでにロリクがフリースランドの支配権を失っていることを示している。おそらく死んでいたのだろう。ルーシの支配者となったロリクが、なぜノーヴゴロドを棄ててフリースランドに戻ったのか。むしろ、フリースランドに戻った気持ちは十分に理解できるから、かれがフリースランドに戻った後のルーシはどうなっていたか、が問題であろう。少なからぬルーシの年代記がリューリクの死を伝えていない。それは単純にリューリクの死を知らなかったからではないだろうか。つまりリューリクはフリースランドで死んだと考えられる。代わりに、年代記はこぞってイーゴリないしオレーグを後継者として伝えている。つまり、リューリクがフリースランドに去った後は、イーゴリないしオレーグがノーヴゴロドの支配者となったのであろう。この際、ヨアキームがオレーグについてわざわざ「純粋なヴァリャーグ」と言っている点が気になる。つまりリューリクは「純粋なヴァリャーグ」ではなかった、ということだろうか。

デンマーク王グドフレド
フリースランド王ハルフダン
デンマーク王ヘミング
デンマーク王ホリク1世
アヌロ
ヘミング
レギンフレド
ハラルド・クラク
ハラルド
フリースランド王ロリク = リューリク?
ロドゥルフ

 ここでヨアキーム年代記を振り返ってみると、リューリクはゴストムィスルの外孫である。ヨアキーム年代記のゴストムィスルがフルダ年代記やクサンテン年代記のゴストムィスルと同一人物であったとすれば、そしてリューリクとロリクが同一人物であったとすれば、フリースランド王ハルフダンは、息子(アヌロ? ヘミング? レギンフレド? あるいは別の息子?)の嫁に、オボドリート人の王ゴストムィスルの娘を迎えた、ということになる。もっとも、その時点ではすでにハルフダンは死んでいたかもしれない。むしろゴストムィスルが、デンマーク王族の若いプリンスを娘婿に迎えた、という形だったかもしれない。これはこれで、ありそうな話ではある。
 とはいえ、個人的には、ふたりのゴストムィスルにしても、リューリクとロリクにしても、たまたま同じ名の人物が同時期に存在していた、というだけのことではないかと思う。
 ロリクとリューリクは、年代的にはおおまかに合致するようだが、その活動の詳細はかなり違うように思う。だいたい跡取りイーゴリをノーヴゴロドに残して自分だけフリースランドに帰還した(としか考えられない)、というのが無理であろう。ロリクにとってはノーヴゴロドよりもフリースランドの方が、さらにそれよりもデンマークの方が重要であったはずである。跡取りが生まれたとなれば、何よりもフリースランドを、できればデンマークを継がせようとするのではないだろうか。もちろん、ロリクにはフリースランドに嫡男がいた、と考えることもできるだろう。だからルーシで生まれたイーゴリを後に残したのだ、と。ちなみにロドゥルフというのは、ロリクの兄ハラルドの遺児と見られるが、実際にロリクの跡を継いでフリースランド王となったゴドリクについては素性不明である。
 それにしても、バルト海の奥深くにいた人々が、わざわざユトランド半島を越えてフリースランドまで公を求めに行った、というのもまた解せない話である。そこまで行かずとも、南スウェーデンのヴァリャーギにいくらでも人材はいたと思うのだが。追い出したばかりのヴァリャーギをまた招くのが嫌なら、オボドリート人やポモージェ人(いずれもバルト海南岸の西スラヴ人である)でも良い。

 以下、個人的な空想。なお、ヴァリャーギ = ルーシ = 北ゲルマン人と仮定する。
 考古学的な発掘調査の結果も考慮すると、まずヴァリャーギがやってきたのはラードガであったろう。これは8世紀のことであった。他方、ゴロディーシチェにはすでにスロヴェーネが住んでいた。かれらは周辺のクリヴィチー、あるいはチューディやヴェーシなどのフィン系民族を、あるいは勢力圏に収め、あるいはかれらと同盟していった(メーリャはモスクワ北東のヴォルガ中・上流域に居住しており、この場合あまり関係ないと思う)。かれらはさらにラードガにも進出し、ここをも勢力圏に収めた。
 9世紀に入ると、ヴァリャーギの活動が活発化し、ラードガのみならずゴロディーシチェにも進出してきた。あるいはこの時期にヴァリャーギが、のちのベロオーゼロの方面にも進出し、その結果としてメーリャとも接触したのかもしれない。少なくとも10世紀には、ヴァリャーギはヴォルガ中流域のブルガールにも交易で訪れている。
 こうしてヴァリャーギが進出すれば、当然先住民との間に摩擦も生じる。それが年代記にも反映されているのだろうが、結局のところスロヴェーネたちはヴァリャーギから公を招聘した。こうして招かれたのがリューリクである。このリューリク招聘譚は、基本的に信じてもいいと思っている(否定する材料がない)。しかしこれが起こったのは、9世紀半ばではなく末、あるいは10世紀に入ってからかもしれない。そして実際にリューリクが、ラードガないしゴロディーシチェから新しい都市ノーヴゴロドへと遷都したのだろう。これなら、ノーヴゴロドで10世紀になってからの遺跡しか発掘されていない考古学的な発掘調査の結果とも、ほぼ合致すると言っていいのではないだろうか。
 ゴストムィスルはいなかった。もちろんいてもいいのだが、少なくともオボドリート人の王などではなかった。当然、リューリクもロリクとは別人である。

 なお、イーゴリには甥がいたので、リューリクにはイーゴリ以外の息子、あるいは娘がいたことになる。ヨアキーム年代記に注してタティーシチェフは、アスコリドがリューリクの長男であったとしている。

▲ページのトップにもどる▲

最終更新日 20 05 2013

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

ロシア学事始
ロシアの君主
リューリク家
人名録
系図
人名一覧
inserted by FC2 system