リューリク家人名録

聖オリガ «ムードラヤ»

Св. Ольга "Мудрая"

キエフ公妃 княгиня Киевская (912-)

生:?
没:969.07.11

父:?
母:?

結婚:903
  & キエフ大公イーゴリ・リューリコヴィチ -945

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
イーゴリと
1スヴャトスラーフ942-972キエフ大公

素性不詳。

 オリガという名は、古ノルド語の Helga に由来する。コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスは Ελγα/Elga と表記している。コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスはじかにオリガと会って言葉も交わしているので、おそらくオリガ自身が、オリガではなく «ヘルガ» と名乗っていたのだろう。もっともそれは、オリガが古ノルド語を話した、ということを意味するわけではない。古ノルド語の名がまだスラヴ化されていなかった、というだけのことである。息子の名がスヴャトスラーフというスラヴ語の名であるから、オリガ本人がスラヴ語を話したかどうかはわからないが、少なくともスラヴ語が宮廷(?)にかなり浸透していただろうことは疑いあるまい。
 ルーシの年代記では Вольга と表記されることがあるが、これは Ольга よりも東スラヴ語的特長が現れた形で、ベラルーシ語でも Вольга である(ウクライナ語ではロシア語と同じ Ольга)。

 『原初年代記』およびノーヴゴロド第一年代記によると、オリガの生涯は以下のとおり。

 まずは素性から見ていこう。

 オリガの素性については、基本的に以上のとおりである。
 『原初年代記』に言うプレスコーフ Плесков とは、プスコーフ Псков のことだとされている。プスコーフは当時まだ存在しなかったようだが、プスコーフ周辺にはクリヴィチーがいたので、クリヴィチーのいずれかの拠点出身という程度に理解しておけばよかろう。
 とはいえ、これをドナウ・ブルガール(ブルガリア)の旧都プリスカ Pliska と解釈し、オリガをブルガリア王女とする説もあるらしい。とすると、ボリス1世の娘だろうか。ボリス1世は864年にはキリスト教に改宗しているので、オリガもキリスト教徒として生まれたということになる。もっとも、ボリス1世の長男ヴラディミルは850年頃に生まれた考えられているので、オリガはかれの娘(つまりボリス1世の孫娘)かもしれない。となると、ヴラディミルはキリスト教に反発していたので、オリガが異教徒として生まれた可能性も否定できない。

ブルガールはテュルク系の民族だが、ハザールにより南ロシアを追われて、一方はヴォルガ中流域に、他方はドナウ下流域に移住した。これをそれぞれ、ヴォルガ・ブルガール、ドナウ・ブルガールと呼ぶ。ドナウ・ブルガールは先住のスラヴ人に吸収同化され、姿を消したが、その国家はブルガリアとして存続した。
 プリスカはドナウ・ブルガールの最初の首都。893年、キリスト教弾圧政策に転じた王ヴラディミルを、キリスト教に改宗していた父のボリス1世(すでに退位していた)が廃位させ、代わりにシメオンを王とした。この時、首都もプリスカからプレスラフに遷されている。このような経緯からも、プリスカには異教の影響が根強く残っていたものと想像される。のち、スヴャトスラーフに破壊されて廃墟となった。ちなみに、古代教会スラヴ語ではプリスカはプレスコーフ(ないしそれに近いスペル)と書かれていた。
 ボリス1世(?-907)はブルガリア王(852-889)。一般的に、ハン(テュルク語)に替えてクニャズ(スラヴ語)を名乗った最初のブルガリア王とされる。ボリスという名も語源がテュルク語かスラヴ語か意見が分かれるが、これ以後のブルガリア王家ではキリスト教起源の名が一般的になる(それまではテュルク語源)。また864年にキリスト教に改宗。このように、ブルガリアがテュルクからスラヴへ、異教からキリスト教へと転換する過渡期に位置した王である。889年に退位して修道士となる。
 ヴラディミル(?-?)はブルガリア王(889-893)。ボリス1世の長男。父の退位を受けて即位したが、異教への執着が強く、やがて反キリスト教政策に転じた。このため、893年に修道院から出てきた父により廃位される。その後の消息は不明。父にはミハイルという洗礼名が知られているが、ヴラディミルについては不明。あるいはキリスト教に改宗していなかったのかもしれない。
 ちなみに、もしオリガがボリス1世ないしヴラディミルの娘だったとすれば、ボリスとヴラディミルという名がロシア語にもたらされたのはオリガを通じて、ということになる。

 タティーシチェフによれば、オリガはゴストムィスルの孫娘ということになる。リューリクもまたゴストムィスルの孫としているので、オリガとリューリクは従兄弟同士ということになる。これは少々年齢的にかみ合わないのではないだろうか。すなわち、オリガは長女の娘であるが、次女の子リューリクが最晩年に生んだ子イーゴリと結婚した、ということになるのだから。
 ヨアキーム年代記によると、オリガは本名をプレクラーサ Прекраса といったらしい。これはどう考えても「大変美しい」という意味のスラヴ語である。オリガという名は、オレーグにちなんで名付けられたとされる。オレーグとオリガが同語源の名であることは誰の目にも明らかであり、ゆえにオリガをゴストムィスルではなくオレーグの親族(娘)だとする年代記もある。

6478年(969-970)。スヴャトスラーフはヤロポルクにキエフを、オレーグにドレヴリャーネを委ねた。この時ノーヴゴロド市民がやって来て、公を求めた。「もし我らのもとに来てくれないのなら、自分たちで公を探してくる」。かれらにスヴャトスラーフは言った「誰が汝らのもとに赴くだろうか」。ヤロポルクもオレーグも拒否した。ドブルィニャが言った「ヴラディーミルを求めよ」。ヴラディーミルは、オリガの所領管理人マルーシャから生まれた。マルーシャはドブルィニャの妹であり、父親はマルク・リュベチャーニン(イパーティイ年代記では «マルコ・リュブチャーニン»)であって、ドブルィニャはヴラディーミルの伯父にあたる。ノーヴゴロド市民はスヴャトスラーフに言った「我らにヴラディーミルを与えよ」。かれは答えた「かれは汝らのものだ」(イパーティイ年代記には欠如)。ノーヴゴロド市民はヴラディーミルを受け取り、ヴラディーミルは伯父ドブルィニャとともにノーヴゴロドに赴き、スヴャトスラーフはペレヤスラーヴェツに赴いた。(『原初年代記』)

 この記述からすると、ドブルィニャはノーヴゴロドの有力者であったと思われる。その妹マルーシャが、オリガに仕えていた。このことは、オリガがノーヴゴロドにある勢力を有していたことを示唆しているように思われる。だからこそ947年にはまずノーヴゴロドに貢納の集積所(?)を設置したのだろう。
 これらを勘案すると、オリガは、ノーヴゴロドであれプスコーフであれ、はたまたイズボルスクであれ、北西ルーシにおいて一定の勢力を有する有力者の娘だったのではないかと推測される。ただしスラヴ人だったかヴァリャーギだったかは不明。オリガという名からすればヴァリャーギだろうが、ゴストムィスルの孫とするタティーシチェフや本名がプレクラーサだとするヨアキーム年代記が正しければスラヴ人。プスコーフやイズボルスクという地理からすると、クリヴィチーか。

 オリガの生年ははっきりしないが、いくつかの示唆的な情報がある。
 のちの時代につくられた系図によると、オリガは80歳前後で死んだとされている。だとすると彼女の生年は889年頃ということになる。『原初年代記』はオリガとイーゴリの結婚を903年としているが、これにちょうど合致する。
 他方で、オリガの生年はもっと後ではないかとも思われる。945年にイーゴリが死んだ時点で、息子スヴャトスラーフはまだ幼児だったらしい点がその根拠で、イパーティイ年代記所収の『原初年代記』は942年の項でスヴャトスラーフが生まれたと明言している。903年に結婚して942年に長男を産んだというのは、ほとんど考えられない。とはいえ、200年前にハザール帝国のカガン・ビハルの娘チチャクは、732年に皇帝コンスタンティノス5世と結婚し、750年に長男レオン4世を産んでいる。結婚後18年目にして嫡男を産んだわけであり、結婚と嫡男の出産との間にかなりの年月が流れることもまったくないではない。しかしオリガの生年がもっと後年であったことを示唆するのはこれだけではない。『原初年代記』によれば、945年にイーゴリを殺したドレヴリャーネは、オリガに、その公マールと結婚するよう要求している。また955年にコンスタンティノープルを訪問した際、皇帝コンスタンティノスもオリガに求婚している。もちろん、当時すでに妻子のあったコンスタンティノスが、キリスト教の教えに反して二重結婚を目論むことなどあり得ないので、この話はでっち上げであるが、955年の時点でもまだオリガが若かったということを示唆しているように思われる。とすると、オリガの生年は920年代ということになるだろう。夫のイーゴリもまた、実際の生年は879年(リューリクの死んだ年)よりも後だったのではないかと思われる。
 しかしまた、スヴャトスラーフやその子らの生年を仔細に検討してみると、スヴャトスラーフの生年こそが920年代だったのではないか、とも思われる(詳細はスヴャトスラーフの項参照)。とするとオリガの生年は900年代というところが相応しいということになる。
 もっとも、厳密に言えばオリガとスヴャトスラーフの母子関係は、ルーシ系の史料が伝えるだけで、外国史料には記されていない。彼女本人と会った皇帝コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスさえこの点何も述べていないのは、いささか不審である。もしオリガとスヴャトスラーフが母子でなかったとすれば、オリガの生年にかんする考察にも大きく影響してこよう。とはいえ、常識的に考えると、女性が権力を握るというのは、当時のルーシにあっては公の母后か妃である場合以外には考えづらい。すなわち息子か夫に代わって実権を行使する場合である。あくまでも常識論に従えば、ではあるが、イーゴリの死後オリガが権力を握ったらしいことからして、オリガとスヴャトスラーフは母子であったと考えていいのではないだろうか。

 ヨアキーム年代記によれば、スヴャトスラーフにはグレーブという弟がいた。ヨアキーム年代記の信憑性については疑問もあるが、個人的にはグレーブの存在は信じていいと思っている。グレーブはキリスト教徒であったが、だとすれば同じくキリスト教徒であったオリガとの関連が考えられる。おそらくはオリガの子であったのだろう。

 944年、イーゴリはビザンティン帝国と条約を結んでいるが、その交渉には多数の使節が派遣されている。使節団のトップは、当然イーゴリの使節であり、次に位置するのが跡継ぎスヴャトスラーフの使節だが、3番目にオリガの使節が挙げられている。イーゴリの甥や、その他の有力者と思われる面々の使節よりもオリガの使節が上に位置づけられている事実は、当時のオリガがかなり敬われる存在であったことを窺わせる。
 イーゴリには複数の妻がいたと思われるが(ヨアキーム年代記もそう明言している)、その点ではオリガは複数の妻たちのうちのひとりでしかなかった。あるいは、当時は妻と妾の区別が明確ではなかったかもしれないし、オリガも妻とも妾ともつかぬ立場だったかもしれない。しかし跡取りたる息子スヴャトスラーフの生みの母として、またヨアキーム年代記の言うように彼女自身がイーゴリに気に入られていたということもあったのか、少なくとも944年の時点までにはオリガの格はイーゴリスヴャトスラーフに次ぎ、宮廷(そんなものがあったとして)のほかの誰よりも上になっていたのだろう。そしてそうであればこそ、イーゴリの死後、幼いスヴャトスラーフの «摂政» にオリガがなったのである。

 945年、イーゴリがドレヴリャーネに殺される。ドレヴリャーネの公マールはオリガに自分の妻となるよう要求した。オリガはその使節を殺したばかりか、自らドレヴリャーネの地に乗り込むと、マール以下関係者を騙し討ちで殺した。さらに翌946年にはスヴャトスラーフと軍を引き連れてドレヴリャーネの地に侵攻。その主都イスコロステニを攻囲するが、陥落しないとなると、ここでもドレヴリャーネを欺いてイスコロステニを陥とし、ドレヴリャーネを虐殺した。
 『原初年代記』はオリガがいかにドレヴリャーネを騙したか得々として語っているが、考えてみればオレーグがキエフを征服したのも同じく騙し討ちであった。神武天皇が大和を征服したのも騙し討ちだったし、古代においてはこれは賢さという美徳と見なされたのだろう。ゆえにこそ、オリガは «ムードラヤ»(賢い)と添え名されることになった。

 しかしイーゴリの死を巡る状況については、すっきりしない部分が多い。イーゴリの項でも触れているが、ここではオリガが果たした役割について検討してみる。

 イーゴリは941年にコンスタンティノープルに遠征し、944年にも再度ビザンティン侵攻を企てている。これに対してオリガは955年にコンスタンティノープルを訪問し、キリスト教の洗礼を受けた。単純に図式化すると、イーゴリは反ビザンティン、オリガは親ビザンティンとすることも可能だろう。
 『原初年代記』によると、イーゴリがドレヴリャーネに殺されるきっかけとなったのは、従士団の次の言葉であった。

「スヴェネリドの家臣が武器と衣服で着飾っているというのに、我々は裸だ。公よ、我らと貢納を徴収しに行こう。自分でも、また我らも稼ごうではないか」

素直に読むと、ここでイーゴリの従士団はイーゴリとスヴェネリドを対比させてイーゴリをなじっている。従士団の目には、イーゴリは自分たちを富ませてくれない無能な君主と見えていたことを示唆しているようである。941年には敗退し、944年も途中で講和し、結局コンスタンティノープルを略奪することも多大な戦利品を獲得することもできなかったのだから、従士団の評価も無理のないところだろう。

ドレヴリャーネは言った「われらはルーシの公を殺した。その妻オリガをわれらの公マールの妻としよう。そしてスヴャトスラーフは、われらの好きにしよう」。ドレヴリャーネは長老たち20人を船でオリガのもとに派遣した……。(中略)……。オリガはドレヴリャーネが来たと知らされ、自身のもとに呼んで尋ねた「客人たちよ、無事着かれたか」。ドレヴリャーネは答えた「着いた、公妃よ」。オリガはかれらに言った「さて、なぜここに参られたか話されよ」。ドレヴリャーネは答えた「ドレヴリャーネの地がわれらを次のような言葉とともに派遣したのだ。われらは汝の夫を殺した。と言うのも汝の夫はオオカミのように奪い取り、強奪した。一方われらの諸公は良き諸公であり、と言うのもドレヴリャーネの地を守るからだ。われらの公マールの妻となれ」。かれ、ドレヴリャーネの公はマールと言った。オリガはかれらに言った「そなたらの言はわたしには好意的なものである。わが夫は甦らせることはできない。いまは船に戻り、誇らしく船で寝よ。朝には人を遣わすによって……」(後略)。

 この『原初年代記』の記述は、お話として面白おかしく脚色されていると言ってしまえばそれまでだが、それにしても大いに違和感を覚えざるを得ない叙述である。ドレヴリャーネは、夫を殺されたオリガが、夫を殺した者のもとに嫁に来ると本気で考えたのだろうか。オリガの対応も、とうてい夫を殺された未亡人の言葉とは思えない。と言うか、これで騙されたドレヴリャーネがあまりに愚かである。
 ドレヴリャーネを制圧した直後の『原初年代記』に次のような一節がある。

そして(オリガは)かれら(ドレヴリャーネ)に多大な貢納を課した。3分の2はキエフに、3分の1はヴィーシュゴロドのオリガに。と言うのもヴィーシュゴロドはオリガの都市であったから。

ヴィーシュゴロドはキエフに隣接する都市であり、のちの時代には地政学的に重要な地位を占めるようになる。ここがオリガの都市だったと言うのである。状況からして、イーゴリの生前から彼女のものとなっていたと考えていいだろう。
 これらのこと(その他)を考えてみると、ひとつの可能性として、次のような状況があったかもしれないと想像される。即ち、ビザンティンへの略奪を優先するイーゴリに対して、友好的な交易を優先する勢力がオリガの下に結集した。941年と944年を経て、イーゴリを支持していた従士団の中にも不満が鬱積していた。あるいはこの状況の中で、オリガはイーゴリと別居していたかもしれない(オリガがヴィーシュゴロドを所有していた、というのはそういうことかもしれない)。とすればなおさらだが、キエフにおけるこの対立を知っていたからこそ、ドレヴリャーネはイーゴリを殺した後でのこのことオリガに「うちの公と結婚してすべて水に流そう」などと虫のいい提案をしに来たのであろう。

 オリガのコンスタンティノープル訪問については、皇帝コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスが『宮廷の儀式について』にて述べている。
 オリガ歓迎の式典は9月9日水曜日と10月18日日曜日におこなわれた。この日付と曜日が一致するのは、946年と957年である。一般的にはオリガのコンスタンティノープル訪問は後者、957年のことと考えられている。946年はイーゴリが殺された翌年、ドレヴリャーネを虐殺して平定した年である。国内体制も固まっていなかったであろうこの時期に、実権を握っていたオリガが数ヶ月もキエフを留守にできたとは考えづらい。しかし、もし反ビザンティン派のイーゴリが殺されて、親ビザンティン派の筆頭であったオリガが権力を握ったのだとすれば、むしろこの時期だからこそコンスタンティノープルを訪問し、ビザンティンの後ろ盾を確保したのだ、と考えることもできよう。ただし、コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスは950年頃に書いた『帝国の統治について』で次のように書いている。

内ロシアからコンスタンティノープルへとやってくる舟は、あるいはネモガルダスから現れる。ここにはロシアの主インゴルの子スフェンドストラボスがいる。またはミリニスカ砦から、テリウツァから、ツェルニゴガから、またはブセグラデから現れる。こうしてかれらすべてがドニェプルを通り、サムバタスと呼ばれるキオアバ砦に集結する。

もしオリガが946年にコンスタンティノープルを訪問していたとしたら、ここでオリガに言及してもおかしくない。根拠としては薄弱ながら、これもオリガのコンスタンティノープル訪問が957年であったことを示唆していると見ることができよう。
 残念ながらコンスタンティノス・ポルフュロゲネトスは、オリガの訪問の目的や、彼女と何を話し合ったかには一切触れてくれていないが、彼女を宮殿に招いた2度の様子を仔細に描写してくれており、示唆的な情報に富んでいる。特に、2度にわたってオリガ一行に下賜された銀貨の量が記載されているのは大きい。

9/910/18
オリガ500200
ανεψιός / anepsios3020
オリガの随行人20 × 8人
オリガの侍女?20 × 6人12 × 16人
オリガの女奴隷8 × 18人6 × 18 人
オリガの通訳15
使節12 × 20人12 × 22人
通訳12 × 2人12 × 2人
商人12 × 43人6 × 44人
司祭グリゴーリイ88
スヴャトスラーフの家臣5 × 複数
使節の随行人3 × 6人

 «アネプシオス» というのは「従兄弟」という意味だと思うが、ロシアの研究者はこれを「甥」と理解していることが多い。またここでは「侍女」としておいたが、原文では単に「女」であり、親族の女性などを含んでいる可能性が高い(本文中の別の場所ではオリガの親族が複数形で示されている)。さらに、「スヴャトスラーフの家臣」もまたはっきりしない。あるいは「召使」か、あるいは「重臣」なのか。個人的な使節として派遣されたのか。
 この表からは様々なことが読み取れようが、大雑把に5つのグループに分けて考えることができよう。第一がオリガとその「甥」。第二がオリガの随従者。第三が使節、商人、通訳。第四が司祭グリゴーリイ。そして最後にスヴャトスラーフの家臣と使節の従者である。

  1. オリガの「甥」が特別扱いされている。これが誰なのか、スヴャトスラーフとはどのような関係にあったのか、ルーシの年代記は一切教えてくれていない。しかしほかのオリガの親族(いたとして)とは別格として扱われていることからしても、かなりの有力者であったであろうと推測できるし、少なくともビザンティンの目にはかなりの重要人物に映ったことは確かである。
  2. 使節が22人ほどいたらしい。これにオリガ、スヴャトスラーフ、そしてイーゴリを加えると25となるが、この数字は944年の交渉に派遣された使節の数と一致する。かれらの扱いは、オリガと比べると文字通り桁違いに低い。それどころか、オリガの随行人・侍女よりも低い。オリガが諸公より飛びぬけた存在であったことを示唆している。
  3. ルーシにおいて布教に尽力していたはずの司祭グリゴーリイの扱いがひどい。
  4. 形式上とはいえ時のキエフ大公であったはずのスヴャトスラーフの家臣の扱いが低すぎる。やはりこの「家臣」とは「召使」のことだろうか。そうであったとしても、オリガの女奴隷より扱いが低いというのはやはり違和感を覚えざるを得ない。

 特に注目したいのは、司祭グリゴーリイの扱いである。
 そもそもコンスタンティノス・ポルフュロゲネトスは、オリガを «エルガ» と呼び、洗礼名エレーナ(ヘレネー)で呼んだことはない。それどころか、キリスト教徒とすら述べていない(確かに異教徒とも言っていないが)。これは、あるいはこの時点ではまだオリガはキリスト教に改宗していなかったのかもしれない、という可能性を提示している。
 オリガの、ひいてはルーシの改宗について、基礎史料を挙げておこう。
 テオファネスの年代記の続編は、コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスの命により編纂された。

(皇帝ミカエルの治世) その後、自由奔放にして無慈悲なスキタイの部族ロスの侵攻があった。これはローマの地を荒廃させ、黒海をも火にかけて都市を攻囲した。ミカエルは当時ムスリムと戦っていたのである。しかし神の怒りに触れ、かれらは故郷に戻っていった。当時教会を主宰していたフォティオスが神に祈ったのである。すぐにかれらからの使節が皇帝の都市を訪れ、洗礼を授けるよう要請してきた。これは実施された。
(皇帝バシレイオスの治世) 寛大にも金、銀、シルクの衣服を分け与え、かれ(バシレイオス)は頑固にして神なき民ロスに合意させ、かれらと平和条約を締結し、洗礼を受けることを納得させて総主教イグナティオスにより叙任された大主教を受け入れるよう説得した。大主教はかの国に赴くと、善行により人々の受け入れるところとなった……(後略)。

皇帝ミカエル3世の治世は842-867。ルーシがコンスタンティノープルを攻囲したのは860年のことである。当時、ビザンティンは古来の慣習に倣ってルーシをスキタイ人と呼んでいた。
 皇帝バシレイオス1世の治世は867-886。
 当時のコンスタンティノープル総主教座は揺れており、イグナティオス(847-858、867-877)とフォティオス(858-867、877-886)とが交互に総主教となっていた。860年にルーシがコンスタンティノープルを襲撃した際には、ここに述べられている通り、総主教はフォティオスであった。他方、後者の出来事は総主教がイグナティオスであった時代のことであるから、867-877に起こったことになる。ただし断片的な年代記記事には、6390年(881-882)頃のことと述べているものがある。

 次に総主教フォティオスの書簡。

かくして、冒涜心を駆逐し、敬虔心を確立して、われらはキリストを知らされ最近啓蒙されたブルガールを伝道された信仰へと戻す良き希望をはぐくんでいる。何となれば、この民族が以前のキリストへの信仰に対する冒涜心を変えただけでなく、これと同様に、多くの者にとって何度も著名にして凶暴さと流血とにとどまっていた、かのいわゆるロスなる民族、自らの周囲に住む者を服属させ、それによって高慢になり、ローマ人の帝国にさえ手を挙げたかの民族も、しかしいまは、以前の異教の神のない信仰を変えて、純粋にして偽りなきキリスト教の信仰に帰依した。こうしてわれらに対する略奪や冒険に代えて従属と歓待の状態に自らを置いたのである。これにより信仰への熱烈な希求と熱意がかきたてられ、かれらは主教と牧師を受け入れ、多大な熱意と努力でもってキリスト教の儀礼を迎え入れている。

ドナウ・ブルガール(ブルガリア)では、863年にボリス1世が改宗を誓い、864年にビザンティンの手により改宗した。しかしボリスはその後ローマ教皇に接近し、ゆえに867年にはフォティオスがローマと対立。870年の第4回コンスタンティノープル公会議にてブルガリア教会がコンスタンティノープル総主教の管轄下にあることが確認された。その後もブルガリア教会はローマ教会とコンスタンティノープル教会との間で綱引きされたが、フォティオスの書簡の冒頭部分は、このことを述べているようにも読める。よってこの断片だけではルーシがキリスト教に改宗したのがいつかははっきりしないが、テオファネスの年代記の続編を支持していると見てよかろう。

 アル=マルワージーは1100年前後の人。

かれら(アッ=ルシヤ)が300年(912-913)にキリスト教を受け入れるということがあった。しかしキリスト教徒になると、信仰がかれらの剣を鈍くし、戦利品がかれらに扉を閉ざして、かれらに損失をもたらした。生きる糧に不足するようになり、戦争と闘争が可能になるよう、かつての慣習に戻れるようにと、イスラームに改宗しようと考えるようになった。ホレズムの支配者に、王の側近4人から成る使節を派遣した。かれらには独立の王がおり、«ブラドミル buladmir» なる称号を称している。テュルクの王を «ハカン»、ブルガールの王を «btlt» と呼ぶようなものである。使節はホレズムに着くと、使命を果たし、ホレズムシャーから説明を受けた。イスラームの法を教えてイスラームに帰依させるよう、かれらに派遣した。

«ブラドミル buladmir» なる称号は、どう考えても «ヴラディーミル vladimir» であり、ヴラディーミル偉大公のことを指している。とするここの話は、988年のルーシ改宗の際のエピソードと関連していると考えられる。その限りでこの話は信用ならないが、しかしイスラーム世界に「ルーシが912-913年にキリスト教に改宗した」という情報があったことは示唆的である。

 プリュム修道院長レギノの年代記(906年まで)の続きが967年まで誰かにより書き継がれている。

959年。コンスタンティノープルの皇帝ロマノスのもとでコンスタンティノープルで洗礼を受けた Rugi の女王 Helena の使節が、王(オットー1世)のもとに現れ、のちに明らかになるように、偽ってその民のために司教と司祭を任命するよう要請した。……。
960年。王(オットー1世)は主の誕生をフランクフルトで祝うと、そこで聖アルバン修道院のリブティウスが、尊敬すべき大司教アダルダグスにより Rugi の司教に任じられた。……。
961年。王(オットー1世)は主の誕生をレーゲンスブルクで祝うと、そこで2月14日に王に大変愛されたヴュルツブルク司教ポッポが死んだ。司教職にはかれの近親のポッポが代わった。リブティウスは、先年何らかの事情で派遣が妨げられていたが、この年の2月15日に死んだ。その職務は、大司教ヴィルヘルムスの助言と庇護により、聖マクシミヌス修道院のアダルベルトゥスが継いだ。大司教からより良いことを期待してよいのに、かれの前で一度もいかなる罪も犯したことなどないのに、異邦に赴かなければならなかった。敬意をもってかれを Rugi のために任じると、敬虔な王(オットー1世)は、普段からの慈悲心に従い、当地にて必要となるすべてのものをかれに与えた。……。
962年。……。この年、Rugi の司教に任じられたアダルベルトゥスは、かれの派遣されたところのものを何ひとつ為すことなく、自身の努力の無意味さを確信して戻ってきた。帰途何人かが殺され、かれ自身大いなる困難の後にようやく免れたのである。王(オットー2世)に近づくと慈悲心に迎えられ、大司教ヴィルヘルムスも、かれ自身がお膳立てをしたことになる長距離の放浪の困難さに憤慨して、かれに財産を提供し、兄が弟にするように、あらゆる便宜を図った。かれの援護のため、皇帝(オットー1世)に書簡を送りさえし、その帰還を宮廷で待つよう命じられた。……。

皇帝ロマノス1世・ラカペノスの治世は920年から944年。皇帝ロマノス2世の治世は959年から963年。この場合はどう考えてもロマノス・ラカペノスの治世を指している。
 Rugi は時代によって具体的に示す民族が異なる。が、この前後はルーシのことを指していたと見られる。
 オリガの洗礼名はエレーナ Helena。そのラテン語形がヘレナ Helena である。

アダルベルト(アダルベルトゥス、エテルベルトゥス)がルーシに司教として派遣され、失敗して逃げ帰ってきた事実は、オットー1世自身の証書をはじめ、多数の記録が書き残している。

かつて司教にして宣教師として Rugi に任命され派遣されたアダルベルトゥス……。(968年のオットー1世の詔書)

大司教エテルベルトゥスは、トリールの修道士にて、以前、Ruscia の司教に任じられたものの異教徒により追われた……。(メルゼブルク司教ティートマールの年代記。1018年の死まで書き続けられて未完に終わった)

960年。王オットーのもとへ Ruscia の民の使節が派遣されてきて、真実への道を啓いてくれる司教を誰か派遣してくれるよう懇願した。異教を棄て、キリストの名と教えを受け入れたいと断言した。かれはこの願いに同意し、正しい教えの司教アダルベルトゥスを派遣した。かれらは、のちに事の顛末が示すように、すべてについて虚偽を述べ、このため任命された司教もかれらの陰謀の死の危険を免れ得なかった。(クェドリンブルク年代記。1030年頃に書かれた。なお、この記事は、ほぼそっくりそのままその後のヒルデスハイム年代記、アルタイフ年代記、ランペルトの年代記でも繰り返されている)

 『公妃オリガへの賛辞』がいつ書かれたかは不明。こんにちに伝わる『ヴラディーミルへの弔辞と賛辞』の写本に含まれているため、同じ頃に書かれたものと推測されるが、『ヴラディーミルへの弔辞と賛辞』がいつ書かれたか自体が不明である。

……キリスト教徒のツァーリたちがキリスト教を確立していたギリシャの地、帝都に赴き、聖なる洗礼を受け、ルーシの地、自らの家、自らの人々のもとに戻った……。
 ……聖なる洗礼により、この至福の公妃オリガは15年を生き、己が善行によりて神を喜ばせ、6477年(968-969)の7月11日に永眠、自らの穢れなき魂を主キリストの御手に委ねた。

これからすると、オリガが洗礼を受けたのは953-954ということになる。
 以上を整理すると以下のようになる。

 いったいルーシは何度洗礼を受ければ気が済むのか、という感じだが、これは洗礼が何度か失敗に終わっていることを示しているのかもしれないし、あるいは洗礼を受けたのが全ルーシではなくその一部であったことを示しているのかもしれない。
 ここで言うルーシがキエフを指すとするなら、860年の洗礼を受けた直後の864年、『原初年代記』によれば、アスコリドディールに率いられた異教徒のヴァリャーギがやって来た。867-877に洗礼を受けた後も、882年に異教徒オレーグに率いられたヴァリャーギがキエフを征服している。洗礼を受けるたびに異教徒のヴァリャーギに征服されていては、なかなかキリスト教も根付かなかっただろう。ヴァリャーギが異教徒だっただけではない。980年代にヴラディーミル偉大公がキエフに異教の神々を祀っているが、その神々はゲルマンの神々ではなくスラヴの神々である。ポリャーネなどのスラヴ人も、多くが異教徒にとどまっていたのであろう。
 しかしその一方で、944年のビザンティンとの条約ではキリスト教徒に関する条項が小さからぬ位置を占めていたし、キエフには教会があったことになっている。またこの条約でルーシは神とペルーンにかけて誓っているが、この「神」はヤハウェ、すなわちキリスト教の神以外にはあり得ない。
 ヨアキーム年代記には次のような記述がある。

オリガは、息子とともに統治し、キエフにいた司祭からキリストの教えを教えられていたが、民衆のために洗礼を受けることはできなかった。そのために忠実な貴人たちとともにコンスタンティノープルに赴き、当地で洗礼を受け、皇帝と総主教から多くの贈り物と栄誉を与えられてキエフに戻った。ここはそもそも聖なる使徒アンデレがキリストの教えを伝道した地である。オリガは賢明なる聖職者を連れてきて、木造の聖ソフィヤ教会を建立した。イコンが総主教から贈られ、教化のために設置された。オリガはスヴャトスラーフを説諭したものの、スヴャトスラーフは聞こうともせず、貴人の多くが死を賜り、不信心者から罵倒された。
 オリガの死でスヴャトスラーフはドナウのペレヤスラーヴェツに移り、ハザール、ブルガール、ギリシャと戦い、妻の父、ウグラーの公、リャーツキイ公から支援を得て、一度ならず勝利したものの、ついにはドナウの彼方の長大な壁のところで(この壁が何でどこにあるのか、わたしは叙述を見つけていない)、全軍が壊滅した。この時悪魔が罪深い貴人たちの心をかき乱し、キリスト教徒が偽の神を怒らせたから軍が壊滅したのだと、軍中のキリスト教徒たちを誹謗した。かれは大変激怒し、たったひとりの弟グレーブをも容赦せず、様々な苦痛でさいなんで殺した。かれらは歓喜とともに殉教に赴いたが、キリストの信仰を否定して偶像を礼拝することを拒否し、喜んで殉教の栄誉を受けた。その強情さを見て、公は、特に司祭に対して、何らかの魔術で人々を惑わして信仰を固めさせているのだとして怒り、キエフに部下を送り、キリスト教の聖堂を破壊し焼き討ちさせた。また自身もすぐに、すべてのキリスト教徒を皆殺しにするために出立した。しかし神は、いかに従順なる人々を救い、邪悪なる者を滅ぼすべきかご存知で、公がすべての戦士をキエフに向けて野に放ち、自身は小数とともに舟で出立すると、ドニェプルの早瀬にて、かれらにペチェネーギが襲いかかり、かれのもとにいた全員を殺した。こうして神の裁きを受けた。

ウグラーとは、原初年代記では通常ハンガリーのことを指す。«リャーツキイ» が何を指すかは不明。あるいは «リャヒ» (ポーランド)か。
 (この壁が……)は、ヨアキーム年代記を自著『ロシアの歴史』に引用したタティーシチェフによる注。「わたし」とはタティーシチェフのこと。

前半部分についてはともかく、後半からわかるのは、970年当時ルーシにはそれなりの数のキリスト教徒がいた、ということである。
 前半部分については、『原初年代記』の次の記述と微妙に食い違う。

6463年(954-955)。……(オリガのコンスタンティノープル訪問と洗礼)……。(帰国後)オリガは息子スヴャトスラーフとともに住み、かれに洗礼を受けるよう諭したが、かれはこれを聞こうともしなかった。とはいえ洗礼を受けようという者がいても、これを禁じることはせず、ただ笑いものにするだけだった。「不信心者にとってはキリストの信仰は愚行であったからだ」。……(その他キリスト教の格言)……。こうしてオリガはしばしば語った「息子よ、わたしは神を知り喜んでいる。そなたも知るなら、同じく喜ぶであろう」。かれはこれに耳を傾けず言ったものだ「われひとりが異なる信仰を受けることなどどうしてできようか。わが従士団に嘲笑されてしまうわ」。彼女はかれに言った「そなたが洗礼を受ければ、みなも従うだろう」。かれは母の言うことを聞かず、異教の慣習に従って生き続けた……。

 『原初年代記』には、スヴャトスラーフがキリスト教徒を弾圧したらしき記述は一切ない。アダルベルトがルーシから逃げ帰ってきているが、実はかれが異教徒に迫害を受けた(らしき)ことを述べているのは、ティートマールやクェドリンブルクなど後代の年代記であり、同時代のレギノの年代記の続編は、ただ «帰途» に殺され(そうになっ)たと言っているだけであり、なぜアダルベルトがルーシを去ったかについては沈黙しているのである。つまり、スヴャトスラーフの治世にキリスト教徒に対する何らかの迫害があったと述べているのは、ヨアキーム年代記ぐらいなものなのだ。
 もちろん異教徒の側にはキリスト教徒に対する反感もあったかもしれない。しかしそれは必ずしもスヴャトスラーフの政策には反映されていない。考えてみればそれも当然で、スヴャトスラーフ(そしてかつてはその父イーゴリ)を支えた20人もの諸公がビザンティンとの友好路線を支持しているのである。すなわち、944年のビザンティンとの条約交渉、いつのことかはともかくオリガのコンスタンティノープル訪問に、それぞれ20人にのぼる諸公がその使節を派遣している(と見られる)。これでは、スヴャトスラーフ個人の考えや感情がどうあれ、反キリスト教政策などそうそう取れるものではあるまい。
 キエフ書簡によれば、いつのことかは不明だがおそらく10世紀前半(すなわちイーゴリの治世?)、キエフにはハザール人のユダヤ教徒コミュニティが存在したらしい。このコミュニティがその後どうなったかは不明だが、いずれにせよ当時のキエフは宗教的にはユダヤ教、キリスト教、古来のスラヴの神々、さらにはイラン系やハザール系など、さまざまな宗派が混在する寛容な社会であったのではないかと想像される。キリスト教は確かに仮想敵国ビザンティンの宗教だったが、それを言えばユダヤ教もまた仮想敵国ハザールの宗教である。特にキリスト教徒のみが攻撃されたとは考えづらい。
 このように考えてくると、国家を挙げてキリスト教を受容したのは988年であったかもしれないが、すでにそれ以前から個々人レベルで多くのルーシがキリスト教に改宗していたと考えていいだろう。オリガもそのひとりだったのであろう。

 オリガはいつ、どこで洗礼を受けたのだろうか。レギノの年代記によれば皇帝ロマノスのもと、すなわち920年から944年までの間にコンスタンティノープルで。『公妃オリガへの賛辞』によれば954年にコンスタンティノープルで。『原初年代記』によれば955年にコンスタンティノープルで。
 ところが、これらの記述と微妙に矛盾するのがコンスタンティノス・ポルフュロゲネトスである。上述の通り、かれはオリガを洗礼名ヘレネー(エレーナ)ではなく異教名で呼んでいる。それどころか、オリガの洗礼について一言も触れていない。
 ここで想像を逞しくしてみると、あるいはオリガはカトリックの洗礼を受けたのではないか、とも考えられる。だからこそ、後世のオルトドクスの聖職者たち(年代記作者)が、オリガの洗礼がいつだったかについて意見の一致を見られないのではないだろうか。また、そうであればこそ、コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスもオリガを洗礼名で呼んでいないのではないだろうか。すなわち、司祭グリゴーリイはオルトドクスではなくカトリックの司祭だったからこそ、コンスタンティノープル宮廷での扱いが低かったのではないだろうか。
 もっとも、常識的に考えればこれはまずあり得ないだろう。上述のように、オリガの時代にはすでにキエフには教会も建てられ、少なからぬルーシがキリスト教徒となっていたが、この布教活動の主体は、すでに860年代(リューリクの時代!)以来100年近くにわたってオルトドクスであって、カトリックではない。さらに言うと、もしオリガがカトリックであったなら、のちの年代記や『賛辞』(いずれもオルトドクスの聖職者が書いたものである)の彼女に対する態度も違っていたはずである。
 『宮廷の儀式について』が書かれた時点でオリガが改宗していなかった可能性はまずない。正確な執筆時は不明だが、コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスは959年に死んでいるからそれ以前である。そして959年と言えば、オリガがオットー大帝に司教派遣を要請した年である。この時点でオリガはキリスト教徒であった。
 オリガがコンスタンティノープルを訪問した時点でまだ改宗していなかった可能性はある。特にオリガのコンスタンティノープル訪問が946年のことであったとすれば、その可能性はより高まる。
 ただしここで、次のように考えることもできよう。すなわち、オリガを洗礼名で呼んでいない事実には大した意味はない。『原初年代記』や『公妃オリガへの賛辞』からして彼女をオリガと呼んでいるのだから。また『宮廷の儀式について』は題名通りコンスタンティノープル宮廷における宮廷儀式を解説した書であり、この場合は外国使節のもてなし方についてオリガを例に挙げて説明しているだけのことであり、ルーシについて、ましてやオリガ個人について叙述することはこの書の目的ではない。だから彼女がキリスト教徒であるという事実に触れなかっただけである。
 だいたい、オリガのコンスタンティノープル訪問自体、『宮廷の儀式について』以外のあらゆるビザンティン系史書が無視している。たまたまコンスタンティノス・ポルフュロゲネトスが『宮廷の儀式について』を書き、たまたま例としてオリガを挙げてくれたので、『原初年代記』の記述が正しいと裏付けられたのである。もし『宮廷の儀式について』がなければ、オリガのコンスタンティノープル訪問はルーシ側のでっち上げ扱いされていたかもしれない。ビザンティン側にとっては、蛮族の «王太后» の来訪など特別な出来事ではなかったということであろう。であるとすれば、オリガがコンスタンティノープルで洗礼を受け、その事実をビザンティン系史書やコンスタンティノス・ポルフュロゲネトスが無視していても、何の不思議もなかろう。
 オリガがコンスタンティノープルで洗礼を受けたとして、それは954年だったのだろうか、955年だろうか、あるいは957年(946年?)だろうか。オリガのコンスタンティノープル訪問が1度だけ、という確証はないが、15年といういささか切りのいい数字を挙げる『公妃オリガへの賛辞』、説話的要素の強い『原初年代記』よりは、曜日まで挙げて話が具体的な『宮廷の儀式について』を信用して、957年のことと考えておこう。
 問題はレギノの年代記が何に基づいているかだが、ロマノス2世が父コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスの生前から共同皇帝になっていたことを考えると、「皇帝ロマノスのもとで」はコンスタンティノス・ポルフュロゲネトスの治世を指している可能性もないではない。その可能性を認めるならば、レギノの記述も954年や955年とするルーシの史料と一致することになる。
 どこまで行っても推測の域を出ないが、基本的にはルーシの史料の信憑性を認めてもいいのではないだろうか。結論として、オリガは957年にコンスタンティノープルを訪問し、この際にキリスト教徒としての洗礼を受けた、ということであろう。

 問題は、なぜオリガはオットー1世に司教派遣を要請したのか、という点である。すでに867-877年にコンスタンティノープルから大主教が派遣されている。あるいはこの時の大主教は、アダルベルトのようにルーシから逃げ帰ったのかもしれない。しかしオリガ自身がコンスタンティノープルを訪問しているのだから、皇帝に直接主教派遣を要請することもできたし、帰国後に主教派遣の要請を思いついたとしても、関係の深いコンスタンティノープルに要請すれば良かったはずである。
 そう考えると、オリガがあえてコンスタンティノス・ポルフュロゲネトスではなくオットー1世に要請したのは、オルトドクスとカトリックの対立を考慮した結果ではないかと思われる。これについては、すでにブルガリア王ボリス1世が、コンスタンティノープルから洗礼を受けた後でローマに接近し、ブルガリア教会の、ひいてはブルガリア国家の独立を確保しようとした前例がある。
 想像を逞しくすると、オリガはビザンティンとの関係強化を推進していたが、同時にビザンティンの属国化することを懸念し、フランク帝国(ローマ)にも接近していたのだろう。コンスタンティノープル訪問は前者の、オットー1世への司教派遣要請は後者の路線に基づいたものであったと考えることができる。しかしキエフではすでに長年のコンスタンティノープルとの密接な関係から、オルトドクスの信者が多かったのであろう。アダルベルトがキエフから逃げ帰ったというのは、キエフのカトリック化を断念した、ということではないだろうか。もちろん、スラヴの神々を信奉する異教徒(その筆頭がスヴャトスラーフであった)に洗礼を授けることも使命であったろうから、それにも失敗したということだろう。
 『原初年代記』によれば、のち、ヴラディーミル偉大公はスラヴの神々に代わる国家宗教を定めるに際し、イスラームとユダヤ教と並んで、オルトドクスとカトリックの双方をその候補とし、使節をドイツ人のところにも派遣している。教義的な問題は理解していなかっただろうが、オルトドクスとカトリックを別々の宗教として認識していたということだろうし、さらにはドイツ(フランク帝国)との間に何らかの伝手が存在していたということだろう。

6472年(963-964)。スヴャトスラーフが成長して成人すると、多くの勇敢な戦士たちを集めだした。豹のように素早く、多くの戦をおこなった。……。

 『原初年代記』のこの記述からすると、スヴャトスラーフが成人したのは964年かその直前のことと考えられる。それ以前はオリガが «摂政» として実権を握っていたかのように思われるが、『原初年代記』の記述自体、946年、947年、955年の3項目しかない。946年はドレヴリャーネに対する復讐戦、955年はコンスタンティノープル訪問を述べているだけである。
 オリガの政策としては、947年にノーヴゴロド近郊に徴税のための集積所(?)を建てた、という記述のみである。この記述を基にして、一般的に、オリガは諸部族支配をシステム化した、とされている。コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスは、ルーシの王は毎年諸部族をまわって貢納品を徴収している、と述べているが、『原初年代記』はキエフ大公が貢納徴収のため諸部族をまわっているとは一度も述べていない。とはいえ、イーゴリの死のきっかけとなったドレヴリャーネに対する貢納徴収を、そのような例と見ることができよう。これに対して、ペレヤスラーヴェツ(ブルガリア)に首都を遷したスヴャトスラーフが毎年諸部族を巡回して貢納を集めたとは思えないので、遅くとも964年以前には貢納を徴収するシステムが確立していたと考えていいだろう。とすれば、このようなシステムの考案者は、やはり通説のようにオリガであったと考えていいだろう。
 細かい話になるが、『原初年代記』において «諸公» という言葉が使われたのは、945年にドレヴリャーネ人の諸公について言及されたのが最後である。以後、«公» と呼ばれるのは、ルーシにおいては、ローグヴォロドを除けばリューリコヴィチに限定される。これが多少なりとも現実を反映しているのだとすれば、イーゴリの死後、おそらくはオリガの時代にキエフ大公の地位が飛躍的に高まったのであろう。根拠の曖昧な仮説の上に仮説を重ねただけの話ではあるが、945年の時点ではキエフ大公と言っても諸公の中の第一人者、«primus inter pares» でしかなかったのであろう。だからこそ諸公はイーゴリと対立したり、オリガを擁立したりできた(かもしれない)。しかし20年近くに及ぶオリガの治世を経て、キエフ大公は諸公とは異なる次元の存在となり、もはや諸公と言ってもその他の貴顕と大差ない存在となっていたのだろう。結果として、«公» という言葉がリューリコヴィチ以外には使われなくなったのではないだろうか。
 『原初年代記』はそもそも内政、特にその仕組みについてはまったくと言っていいほど言及してくれていないので推測するしかないが、このようなキエフ大公位の上昇をもたらしたもののひとつが、諸部族に対する貢納徴収システムの確立であったろう。諸部族に対する支配権の確立は、権力内部におけるキエフ大公位の確立と連動していたに違いない。オリガが息子の «摂政» であったにせよ、自身の権利による支配者であったにせよ、別の言い方をするとキエフ大公が誰であったにせよ、オリガの政策がキエフ大公に体現される中央権力の強大化を促進したものであったことはまず間違いあるまい。こうしてオリガの時代に、キエフ・ルーシの国家としての体裁が整えられていったと考えられる。

 964年以降、より厳密に言えば955年以降、オリガは『原初年代記』の記述から姿を消す。次に姿を見せるのは968年のことであり、ペレヤスラーヴェツに首都を遷したスヴャトスラーフによって孫たちとともにキエフに残されている。他方で964年以降、毎年スヴャトスラーフの行動が記されている。
 これからして、955年から964年までのいつかの時期に、オリガが失権したと考える者がある。通常、それはアダルベルトの宣教失敗を契機にしていると考えられている。とすれば、オリガ失権の原因は、彼女の対ドイツ接近策にあったと言っていいだろう。もし彼女が親ビザンティン派諸公により擁立されたとすれば、この政策は裏切りであったろうし、そうでなくとも当時のルーシはビザンティンとの友好政策をとっていたから、そのビザンティンに敵対するかのような対ドイツ接近策には反発があったはずである。そこに偶然スヴャトスラーフの成人が重なり、権力の交替が実現したのだろう(もちろん両者の符合が偶然ではない可能性もあろう)。

 968年、ドナウ遠征に赴いたスヴャトスラーフにより孫たちとともにキエフに残されたオリガは、言わばスヴャトスラーフに見棄てられた存在であった。そのことは、キエフ市民が代弁している(『原初年代記』より)。

「汝、公よ、よその地を得ようとしてそのことを気にかけ、己が地を見棄てたが、おかげでペチェネーギが危うくわれら、汝が母親、汝が子らを捕らえるところであった。汝には己が父の地が、老いたる母親が、己が子らが惜しくはないのか」

 オリガは自身の領地であるヴィーシュゴロドには隠棲せず、依然としてキエフにいたらしい。しかも上掲の言葉から、ある程度の存在感を保っていたように思われる。それかあらぬかタティーシチェフは、何によったか、スヴャトスラーフ不在中に内政をみたのはオリガだったと記している。どうやらこんにち、多くの文献がこの説を踏襲しているようだ。

 969年、ペレヤスラーヴェツに住みたいと言うスヴャトスラーフに対して、オリガはこう答えた(『原初年代記』より)。

「ご覧。わたしは病んでいる。わたしを残してどこへ行こうと言うの」。彼女はすでに病に蝕まれていたからである。そして言った「わたしを埋葬したなら、望むところへ行くがよい」。3日後、オリガは死んだ。息子は、また孫らも、さらにすべての人々が、彼女を思って大いに泣き、運んで、定められた場所へと埋葬した。オリガは自分のために異教の葬儀をおこなわぬよう遺言していた。彼女には司祭がいたからであり、かれが幸いなるオリガを埋葬した。

 上で引用したように、『公妃オリガへの賛辞』によれば、これは969年7月11日のことであった。オリガを埋葬した司祭とは、あるいはグリゴーリイであったろうか。

 ロシア正教会により列聖される。

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最終更新日 29 12 2013

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