ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチ «フラーブルィー»
Мстислав Владимирович "Удалой", "Храбрый"
トムタラカーニ公 князь Тмутараканский (987-1036)
チェルニーゴフ公 князь Черниговский (1024-36)
生:?
没:1036
父:キエフ大公ヴラディーミル偉大公 (キエフ公スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチ)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
1 | エヴスターフィー | -1033 |
第5世代。洗礼名コンスタンティーン。
『原初年代記』によれば母はチェコ人女性。ヨアキム年代記では、公女アディリとされている。ログネーダの次男にムスティスラーフというのがいたとされているが、一般的にこれとは別人とされる。
兄弟の長幼の順ははっきりしないが、ヤロスラーフ賢公よりは年少であったと考えられている。もしムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチがログネーダの次男であれば、ヤロスラーフ賢公の兄ということになるが、ふたりの経歴を比較してみると、やはりヤロスラーフ賢公の方が年長であったと考えた方が自然であろう。
父が兄弟を各地に派遣したのは988年頃が最初で、ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチもこの時トムタラカーニに派遣された。しかし実際にはこれより遅く、1000年前後、あるいは1010年頃とする説すらある。もしそうであるならば、ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチは兄弟の中でもかなり年少の組だったとも考えられる。そうは言っても、ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチの母がビザンティン皇女アンナでなかったことはまず間違いなく、よって父が彼女と結婚した988年(990年)までには誕生していたと考えるべきだろう。
1015年、父が死去。その後のヴィーシュゴロド公スヴャトポルク・オカヤンヌィーとノーヴゴロド公ヤロスラーフ賢公との争いには、ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチはかかわっていない。
この争いは1018年(19年?)まで続くが、その間、1016年にムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチはハザール人と戦い、ビザンティン帝国のクリミア遠征に従軍している。
1022年、チェルケース人の公レデデャを破り、チェルケース人に貢納を義務づける。年代記によれば、武器を持たずにレデデャと一騎打ちをし、勝利したという。
タティーシチェフによれば、1023年、ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチは、キエフの支配者となっていた兄ヤロスラーフ賢公に、領土を要求する。ヤロスラーフ賢公はムーロムを与えるが、ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチははるか遠く離れたムーロムに満足せず、キエフに侵攻したとされる(当時ヤロスラーフ賢公はノーヴゴロドに住んでいた)。
1024年、ハザール人やチェルケース人を率いてヤロスラーフ賢公を破り、キエフを征服しようとするが、キエフ市民がこれに反発。ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチは代わってチェルニーゴフを占領する。ヤロスラーフ賢公はヴァリャーギを雇ってチェルニーゴフを奪回しようとするが、ヴァリャーギに反発したセヴェリャーネ人(チェルニーゴフの住人)を味方にしたムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチがこれを破った。
1026年、ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチとヤロスラーフ賢公は協定を結び、ヤロスラーフがドニェプル西岸を、ムスティスラーフが東岸(チェルニーゴフ、ムーロム、トムタラカーニ)を支配することで合意した。
これ以降、ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチはヤロスラーフ賢公と平和を保ったが、事実上南東ルーシを独立の君主として支配した。なお、トムタラカーニには息子エヴスターフィーを代理として派遣したとする説もある。
1031年、ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチはヤロスラーフ賢公とともにポーランドに侵攻する。
チェルニーゴフのスパースキー大聖堂に葬られる。
添え名の «フラーブルィー» は「勇敢な」という意味。«ウダローイ» という添え名もよく使われ、こちらも「勇ましい、威勢のいい」という意味だが、「向こうっ気の強い、血気に逸る」といった、少々否定的なニュアンスも含む。