リューリク家人名録

インゲゲルド

Ingegerd Olofsdotter, Ингегерда

キエフ大公妃 великая княгиня Киевская (1019-50)

生:1000?−シグトゥナ(スウェーデン)
没:1050.02.10−ノーヴゴロド

父:スウェーデン王オロフ課税王
母:エストリード(オボドリート族)

結婚:1019?−ノーヴゴロド
  & キエフ大公ヤロスラーフ賢公 980?-1054

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
ヤロスラーフ賢公と
?イリヤーノーヴゴロド
1ヴラディーミル1020-52ノーヴゴロド
2アナスタシーヤ1023-96アンドラーシュ1世1015-60ハンガリー王
3イジャスラーフ1024-78トゥーロフゲルトルーダ-1108ポーランド王ミェシュコ2世
4エリザヴェータ1025-67?ハーラル3世苛烈王1015-66ノルウェー王
5スヴャトスラーフ1027-76チェルニーゴフ
6フセーヴォロド1030-93ロストーフマリーヤ?-1067皇帝コンスタンティノス9世・モノマコス
7ヴャチェスラーフ1034-57スモレンスク
8イーゴリ1036-59ヴォルィニクーニグンデオルラミュンデ伯
9アンナ-1076/89アンリ1世1009-60フランス王
ラウール・ド・クレピ-1074ヴァロワ伯

母エストリード/アストリードはオボドリート人とされているが、オボドリート人とはデンマークの南東、バルト海に面した今日のドイツ北東部に住んでいたスラヴ人。西のザクセン人に圧迫されており、両親の結婚も同じ異教徒同士の政略結婚だったのかもしれない。
 しかし父は1008年、キリスト教の洗礼を受ける。インゲゲルドもこの時キリスト教徒となった(が、洗礼名は知られていない)。
 なお、母親がオボドリート人だった関係で、インゲゲルドも幼少の頃からスラヴ系の言語を知っていたとも言われる。

 1016年、ノルウェーとの関係改善のため、その王オラフ2世との結婚が決められた。しかし父が考えを翻し、オラフ2世と結婚したのは異母妹(私生児)のアストリード。インゲゲルドはヤロスラーフ賢公に与えられた。
 ヤロスラーフ賢公は1015年からルーシの覇権を賭けた争いを兄と繰り広げており、その際にヴァリャーギの力も借りている。このヴァリャーギはおそらくスウェーデン出身だったろうと想像され、その辺りからもオロフ課税王とヤロスラーフ賢公との密接な関係が窺われる。

 ヤロスラーフ賢公との結婚に際して、洗礼名イリーナをもらう。またこの時、ネヴァ河口付近を婚資としてもらったらしい(のちのこの地域の呼び名 «イングリア»、«インゲルマンランディヤ» はインゲゲルドにちなんだものだという)。

 1016年、デンマーク王クヌード大王がエドマンド・アイアンサイドを破ってイングランド王となる。クヌード大王はその遺児をスウェーデンのオロフ課税王のもとに送りつけた。殺させるためだったと言われるが、オロフ課税王はこの虜囚をキエフの娘のところに送る。インゲゲルドは子供たちを庇護し、その後いつの頃か、ハンガリーに亡命させた。

 1028年、クヌード大王はノルウェーに侵攻。かつてインゲゲルドの結婚相手とされたオラフ2世は国を追われ、ノーヴゴロドに逃亡してきた。インゲゲルドはこれを庇護し、1030年にオラフ2世が王位を奪回するためノルウェーに帰還する際には、息子マグヌスをキエフに残すよう勧めている。実際オラフ2世は戦死し、マグヌスがノルウェー王位を奪取するのは1035年、クヌード大王の死後のことである。

 ヤロスラーフ賢公に仕えるヴァリャーギの活躍を描いた『エイムンドのサガ』によると、インゲゲルドは内政においても大きな影響力を持ち、ヤロスラーフ賢公もしばしば彼女の意見を聞くなどしている。

 その死についてははっきりしない。『原初年代記』によると夫に先立ち、1050年に死んだという(ちなみに『原初年代記』は彼女の名を明記しておらず「ヤロスラーフの妻」と呼んでいる)。
 しかし別の説によると、夫の死後、修道女となった(修道名アンナ)。没年は1056年、やはり2月10日、ノーヴゴロドにおいて。ノーヴゴロドの大主教座は1439年になってアンナを聖人と公式に認め、以後聖アンナはノーヴゴロドの守護聖者とされた。

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