リューリク家人名録

イリヤー・ヤロスラーヴィチ

Илья Ярославич

ノーヴゴロド公 князь Новгородский

生:?
没:?

父:キエフ大公ヤロスラーフ賢公 (キエフ大公ヴラディーミル偉大公
母:?

結婚:?

子:?

第6世代。ヤロスラーフ賢公の子。

 ノーヴゴロドの年代記に次のような記述がある。

「ヤロスラーフに息子イリヤーが生まれた。ノーヴゴロドに座らせた(「統治させた」という意味 ※引用者注)。死んだ。その後ヤロスラーフはコスニャティーンに怒り、投獄した。そして自分の息子ヴラディーミルをノーヴゴロドに座らせた」

 イリヤー・ヤロスラーヴィチに関する記録はこれだけである。『原初年代記』には名前も挙げられていないが、『原初年代記』をはじめ年代記は、存在した子をすべて挙げているわけではない。まして幼年で死んだ子となれば挙げられる可能性は低い。
 しかしだからと言ってノーヴゴロド年代記の記述を全面的に信じる根拠にはならず、イリヤー・ヤロスラーヴィチの存在を否定する学者もいる。かれらは主に、イリヤーというのは、実際にノーヴゴロド公となったヴラディーミル・ヤロスラーヴィチの洗礼名だ、と考えているようだ。しかし上記記録を信ずるならば、イリヤーとヴラディーミルは別人である。

 とりあえず、以下、実在したとして記述する。

 イリヤーとは、リューリコヴィチとしては非常に珍しい名を与えられたことになる。
 この名はヘブライ語のエリヤに由来し、預言者エリヤにちなんだ名である。当然キリスト教徒としての洗礼名である。しかし当時のリューリコヴィチは、洗礼名のほかに、そもそもの誕生時には伝統的なスラヴ語風・スカンディナヴィア語風の «異教名» をまず与えられていた。しかしイリヤー・ヤロスラーヴィチにかんしては、そのような名は伝わっていない。
 ヤロスラーフ賢公はノーヴゴロドに預言者エリヤ教会を建てている。またヤロスラーヴリにも聖エリヤ教会を建設したとも言われる。あるいはイリヤー・ヤロスラーヴィチ(の実在)と関係があるのか。

 ノーヴゴロド公であった時期は、ヴラディーミル・ヤロスラーヴィチより以前でなければならない。と言うのも、1030年代から1052年までヴラディーミル・ヤロスラーヴィチが、1052年からはイジャスラーフ・ヤロスラーヴィチがノーヴゴロド公となっており、イリヤー・ヤロスラーヴィチの入り込む余地はないからだ。
 では、どの程度前だったのだろうか。
 この直前、すなわち1030年代初頭、1030年前後、とする説もあれば、父がキエフの覇権を巡って南ルーシで争っていた1016年から19年にかけての時期だ、とする説もある。

 いずれにせよ、そうするとイリヤー・ヤロスラーヴィチはヤロスラーフ賢公の長男ということになる。つまり、ヴラディーミル・ヤロスラーヴィチが1020年の生まれなので、イリヤー・ヤロスラーヴィチの生年はそれ以前ということだ。
 その場合、どんなに若く見積もっても1030年の時点で10歳はすぎている。少なくともティーンエイジャーまで生きて、しかもノーヴゴロド公になっていたとしたら、年代記に名が残されてもいいのではないだろうか。
 そう考えると、むしろイリヤー・ヤロスラーヴィチがノーヴゴロド公だった時期は、1010年代後半の父不在の時、と考えた方がいいような気がする。ティーンエイジャーにもならない幼年で、しかも混乱の時期だったため、記録から漏れた、ということなのではないだろうか。

 ヤロスラーフ賢公ヴラディーミル・ヤロスラーヴィチの母インゲゲルドとの結婚は、正確な年は不明ながら、1016年か19年かとされる。とすると、イリヤー・ヤロスラーヴィチの母はインゲゲルドではなく、1018年にポーランド王ボレスワフ1世勇敢王に捕らえられたとされるヤロスラーフ賢公の最初の妻だったのではないだろうか。

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