アンナ・ロマーノヴナ
Αννα, Анна Романовна
キエフ大公妃 великая княгиня Киевская (988-1012)
生:963.03.13−コンスタンティノープル
没:1011/12
父:皇帝ロマノス2世
母:テオファノ
結婚:988−ケルソネソス
& キエフ大公ヴラディーミル偉大公 -1015
子:?
皇帝バシレイオス2世・ブルガロクトノスとコンスタンティノス8世の同腹かつ唯一の妹。
誕生の直後(2日後)に父を亡くす。
メルゼブルク司教ティートマールは次のように記している。
かれ(ヴラディーミル偉大公)は、ギリシャからヘレナなる名の妻を迎えた。彼女は以前、オットー3世の妃となることが定められていたが、狡猾な手段でかれの虜となった。
ティートマールは同時代人(975年に生まれ1018年に死んだ)であるから、その証言は最大限に尊重されねばならないが、これは明らかな誤りである。
まず、ヴラディーミル偉大公がギリシャから迎えた妻の名はヘレナではなくアンナである。オットー3世は確かにビザンティン皇女に求婚したが、それは995年のこと。すでにアンナがヴラディーミル偉大公と結婚してから数年が経っている。もちろん、オットー3世ではなくオットー2世が求婚したということもあったかもしれないが、実際にオットー2世はイオアンネス・ツィミスケスの縁者(一般に姪と呼ばれている)と結婚している。しかしそれは972年のことであり、当時アンナはまだ10歳にすらなっていない。
『原初年代記』によれば988年(他の年とする説も多数)、キリスト教に改宗したヴラディーミル偉大公と政略結婚させられる。
「Иду, как в полон, лучше бы мне здесь умереть. (虜囚として行きます。ここで死ぬ方がいいのだけど)」
と言ったアンナに対して兄たちは、
「Может быть, обратит тобою Бог Русскую землю к покаянию, а Греческую землю избавишь от ужасной войны. Видишь ли, сколько зла наделала грекам Русь? Теперь же, если не пойдешь, то сделают и нам то же.」
(たぶん、神がお前を使ってルーシの地を改悛に向かわせることだろう。お前はギリシャの地を怖ろしい戦争から免れさせるのだ。どれほどの災厄をルーシがギリシャ人にもたらしたことか。もしおまえが行かなければ、われわれにも同じことをするだろう)
と答えた。冒頭はいかにもキリスト教徒らしいが、後半に政略結婚の本音が現れている。
ただし、結婚の状況については情報が錯綜していてはっきりしない点が多い。詳細についてはヴラディーミル偉大公の項に譲るが、
- 『原初年代記』によれば、ヴラディーミル偉大公が奪ったケルソネソスを返還する代償にアンナが与えられた。彼女と結婚するため、ヴラディーミル偉大公はキリスト教に改宗した。
- 『ルーシの公ヴラディーミルへの弔辞と賛辞』も同様に伝えているが、ヴラディーミル偉大公はすでにキリスト教徒になっている。
- ヤフヤー・アル=アンターキーによれば、アンナは兄への軍事援助の見返りとしてヴラディーミル偉大公に与えられた。ただしヴラディーミル偉大公はこの際にキリスト教に改宗している。
アンナがヴラディーミル偉大公との結婚を渋ったのは事実かもしれないが、彼女に結婚を迫った兄バシレイオスの事情は、ヤフヤー・アル=アンターキーが正しければ、『原初年代記』が述べるものとはあるいはまったく違ったかもしれない。また、『ルーシの公ヴラディーミルへの弔辞と賛辞』が正しければ、アンナはすでにキリスト教徒に改宗していたヴラディーミル偉大公と結婚したことになる。
その出自に敬意を表してか、ルーシの年代記は彼女を «公妃 княгиня» ではなく «皇妃 царица» と呼んでいる。
公妃としてのアンナの事績についてはほとんど知られていない。ただし諸史料(『原初年代記』もヤフヤー・アル=アンターキーその他も)が一致しているのは、アンナがキエフ・ルーシにおけるキリスト教普及に尽力した、という点である。これとても教会関係者の定型句だと片付けることはできるが、アンナの置かれていた状況を考えると否定することもないだろう。
彼女の子供については、『原初年代記』は何も触れておらず、ということはいなかったということだろう。とはいえヴラディーミル偉大公の子供たちの中には、彼女の子供だったのではないかと考えられている者もいる。
ポーランド王カジミェシュ1世の妃マリア・ドブロニェガは彼女の娘とされることがある(が、おそらくはアンナの死後にヴラディーミル偉大公が再婚した後妻の子とされることの方が多い)。
また、ヨアキーム年代記ではボリースとグレープのふたりも彼女の息子とされる(が、これには特段の根拠がない)。
なお、ビザンティン帝国の皇女でルーシに嫁いだとされる女性はこれ以降、フセーヴォロト・ヤロスラーヴィチの妃マリーヤ или アナスタシーヤ(コンスタンティノス9世・モノマコスの娘)、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチの妃バルバラ(アレクシオス1世・コムネノスの娘)、ユーリー・ドルゴルーキーの妃オリガ(イオアンネス2世・コムネノスの娘)の3人がいる。ただしいずれもビザンティン側の史料には存在しないらしく、ことにバルバラとオリガのふたりはその素性が疑わしい。