リューリク家人名録

アナスタシーヤ・ヤロスラーヴナ

Анастасия Ярославна, Anasztázia

公女 княжна
ハンガリー王妃 magyar királyné (1046-61)

生:1023?−キエフ
没:1096−アドモント(シュタイエルマルク州、オーストリア)

父:キエフ大公ヤロスラーフ賢公 (キエフ大公ヴラディーミル偉大公
母:インゲゲルド (スウェーデン王オロフ課税王)

結婚:1038?
  & ハンガリー王アンドラーシュ1世 1015-60

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
アンドラーシュ1世と
1アデルハイド1040-62ヴラティスラフ二世ボヘミア王
2シャーラモン1052-87ハンガリー王
3ダーヴィド1053-94

第6世代。ヤロスラーフ賢公の長女。

 1031年、ハンガリーの王太子イムレが死去。独り息子を亡くした王イシュトヴァーン1世は、甥のピエトロ・オルセオーロ(ヴェネツィア総督の子)を後継者に指名。これに従兄弟(?)ヴァーソイが反発したが、イシュトヴァーン1世はその目をつぶし、国外に追放。この時ヴァーソイとともに、その子アンドラーシュも亡命。キエフに逃れてきた。
 おそらくアナスタシーヤが成長するのを待ったのだろうが、1038年頃になって、アナスタシーヤとアンドラーシュは結婚。

 ちょうど1038年にイシュトヴァーン1世が死去。ピエトロ・オルセオーロは国内を抑えきれず、その中央集権化政策・キリスト教化政策に反発した貴族たちに乞われてアンドラーシュは帰国。ピエトロ・オルセオーロを倒して王位に就いた。

 アナスタシーヤは結婚後10年以上男子を産まず、このため当初はアンドラーシュの弟ベーラが後継者とされ、国土の3分の1を委ねられていた。しかし1052年、アナスタシーヤがシャーラモン(ソロモン)を産み、当然のごとくアンドラーシュがシャーラモンを後継者としたことから、アンドラーシュとベーラの間に内戦が勃発。
 アンドラーシュが死んでベーラが王位に就くと、アナスタシーヤはシャーラモン等を連れてバイエルン(ドイツ)に逃亡した(亡夫の仇敵イシュトヴァーンの未亡人がバイエルンの姫君だった)。

 1063年、ベーラの死で、ようやくシャーラモンが即位。まだ幼かったシャーラモンに代わり、アナスタシーヤが摂政として政務をみた。
 しかし1070年代に入ると、成長した息子と母との関係は緊張する。同時に、ベーラの遺児たちとシャーラモンの関係も悪化し、ハンガリーは再び内紛に陥っていく。
 一説によるとアナスタシーヤはドイツ貴族と再婚したとされ、この時期以降の消息は不明。死去の年もよくわからないが、最後には修道女となっていたらしい。

 なお、彼女の名はルーシの年代記はおろかハンガリーの年代記にも明記されていない。«アナスタシーヤ» はようやく15世紀以降の年代記に登場する。彼女の本名は、あるいはアナスタシーヤでなかった可能性も否定できない。

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