聖ヴァシリコ・コンスタンティーノヴィチ
Св. Василько Константинович
ロストーフ公 князь Ростовский (1218-38)
生:1209.12.07−ロストーフ
没:1238.03.04(享年28)
父:ロストーフ公コンスタンティーン賢公 (ヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公)
母:アガーフィヤ (スモレンスク公ムスティスラーフ老公)
結婚:1227−モスクワ
& マリーヤ公女 -1271? (チェルニーゴフ公ミハイール・フセヴォローディチ)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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マリーヤ・ミハイロヴナと | ||||||
1 | ボリース | 1231-77 | ロストーフ | マリーヤ | ムーロム公ヤロスラーフ・ユーリエヴィチ | |
2 | グレーブ | 1237-78 | ベロオーゼロ | フェオドーラ | -1273 | サルタク・ハーン |
第11世代。モノマーシチ(ロストーフ系)。コンスタンティーン賢公の長男。
1216年、叔父ユーリー・フセヴォローディチとの争いに勝った父がヴラディーミル大公となると、ヴァシリコ・コンスタンティーノヴィチは父の代理としてロストーフに残された。
1218年、死に臨んだ父により、ロストーフの支配を委ねられた。同時に弟フセーヴォロド・コンスタンティーノヴィチにヤロスラーヴリとウーグリチが分領として与えられている。末弟ヴラディーミル・コンスタンティーノヴィチもいたが、かれに分領が与えられたかどうかは定かではない(かれだけ除け者にされる理由が見当たらないので、ウーグリチが与えられたのはかれではなかったかと思われる)。
父が死んだのは翌1219年のことであり(1218年説もあるが生前に分領が分与された点は諸文献一致している)、ヴァシリコもフセーヴォロドもともにまだ10歳にも達していなかった。あるいは父としては、かつて対立していたユーリー・フセヴォローディチが、当時はすでに和解していたとはいえ、自分の死後に遺領を奪ったりしないよう、確実に息子たちに分領が相続されるようにと、生前に既成事実をつくっておいたということなのかもしれない。
1219年の父の死後、叔父ユーリー・フセヴォローディチがヴラディーミル大公位を継いだが、ヴァシリコ・コンスタンティーノヴィチのロストーフ支配は認められた。以後ヴァシリコ・コンスタンティーノヴィチは、最期にはユーリー・フセヴォローディチと和解した父の遺言に従い、ユーリー・フセヴォローディチに忠実に仕えた。
1219年、ヴォルガ・ブルガールがウーステュグ(かれの領土)に侵攻。これに対する報復として、1220年、ユーリー・フセヴォローディチの命に従いヴォルガ・ブルガール遠征にロストーフ軍を従軍させる(遠征軍を指揮したのは別の叔父スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ)。
1223年、カルカ河畔でモンゴル軍を迎え撃つキエフ大公ムスティスラーフ老公の支援のため、ユーリー・フセヴォローディチに南ルーシへ派遣されるが、チェルニーゴフに到着した時点でルーシ諸公軍がモンゴル軍に敗北したとの報せを得て、帰国。
1224年、ユーリー・フセヴォローディチのノーヴゴロド遠征に従軍。
1226年、チェルニーゴフ公位を巡ってミハイール・フセヴォローディチがオレーグ・クールスキーと戦った際には、ユーリー・フセヴォローディチとともに前者の支援に赴く。おそらくその関係からだろう、翌1227年にはミハイール・フセヴォローディチの娘と結婚している(ユーリー・フセヴォローディチの斡旋によるものだったらしい)。ちなみに弟フセーヴォロド・コンスタンティーノヴィチはオレーグ・クールスキーの娘と結婚している。
1228年、ユーリー・フセヴォローディチにより、モルドヴァー人遠征に派遣される。
1228年、ノーヴゴロド公位を巡り、ユーリー・フセヴォローディチとその弟ヤロスラーフ・フセヴォローディチとの間に軋轢が生じると、ヴァシリコ・コンスタンティーノヴィチは弟たちとともにヤロスラーフ・フセヴォローディチの側に立つ。父の死後、コンスタンティーノヴィチ兄弟は初めてユーリー・フセヴォローディチと対立することになった。
しかし1229年、スーズダリで一族は会見し、和解が成った。
1230年、ユーリー・フセヴォローディチに従いチェルニーゴフに侵攻。岳父の領土を蹂躙してまわった。
1238年、ユーリー・フセヴォローディチとともにモンゴル軍をシーティ河畔で迎え撃つ。ユーリー・フセヴォローディチは戦死し、ヴァシリコ・コンスタンティーノヴィチは捕虜となった。モンゴル軍はヴァシリコ・コンスタンティーノヴィチを味方にしようとしたが、ヴァシリコ・コンスタンティーノヴィチはそれを拒否し、絶食。ついにはモンゴル軍に殺された。
遺骸はのちに発見され、ロストーフに葬られる。年代記作家には受けが良く、非常に高く評価されている。