マリーヤ・ペトローヴナ・ブイノーソヴァ=ロストーフスカヤ
Екатерина Петровна Буйносова-Ростовская / Мария
公女 князь
ツァリーツァ царица всея Руси (1608-10)
生:?
没:1626
父:ピョートル・イヴァーノヴィチ・ブイノーソフ=ロストーフスキー公 (イヴァン・イヴァーノヴィチ・ブイノーソフ=ロストーフスキー公)
母:?
結婚:1608−モスクワ
& ツァーリ・ヴァシーリー・イヴァーノヴィチ・シュイスキー 1552-1612
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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ヴァシーリー・イヴァーノヴィチと | ||||||
1 | アンナ | 1609- | ||||
2 | アナスタシーヤ | 1610- |
第23世代。モノマーシチ(スーズダリ系)。ロシア貴族。
本名はエカテリーナ。結婚に際してマリーヤと改名している(妹だか姉だかにマリーヤがいた)。
父はすでに1607年に死んでいたが、ボロートニコフの乱や偽ドミートリー2世の出現で権力基盤に不安を覚えていたであろうヴァシーリー・シュイスキーとしては、これによりロストーフスキー公一族の支持を取り付けようとした政略結婚であったろう。
しかしその甲斐もなく(?)、1610年にはクーデタでヴァシーリー・シュイスキーは廃位された。マリーヤ・ペトローヴナも同じくツァリーツァの位を追われ、夫と同じく強制的に修道院に入れられた(修道名はエレーナと伝えられる)。彼女がツァリーツァであったのは、わずか2年間だけであった。
ちなみにこの時期、ロシアには3人のツァリーツァがいた(彼女のほかに、マリーヤ・ナガーヤとマリーナ・ムニーシェク)。
マリーヤ・ペトローヴナの個性についてはよくわからない。生没年すらはっきりせず、年代記にも見向きもされない、影の薄い人だったのだろう。なお、娘ふたりも幼少時に死んだとされているが、没年は不明。