リューリク家人名録

イヴァン・アンドレーエヴィチ «ブリュハートィー»

Иван Андреевич "Брюхатый"

князь

生:?
没:?

父:ロストーフ公アンドレイ・アレクサンドロヴィチロストーフ公アレクサンドル・コンスタンティーノヴィチ
母:?

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1アンドレイ
2アレクサンドル

第18世代。モノマーシチ(ロストーフ系)。

 父の没年は不明。父は1415年にモスクワ大公ヴァシーリー1世によってプスコーフ公に任命されたが、一般的には、その後ロストーフ=ボリソグレーブスキー公位は叔父フョードル、続いてイヴァンが相次いで継いだとされている。しかしイヴァン・アレクサンドロヴィチは家系図だけにしか記述されておらず、そもそもこの時代にはロストーフについての情報は著しく乏しい。このため、イヴァン・アレクサンドロヴィチが本当にロストーフ=ボリソグレーブスキー公位を継いだのか、かれがいつ死んだのか、その後ロストーフ=ボリソグレーブスキー公位がどうなったか等、一切不明である。
 それまでのキエフ・ルーシの慣習からすれば、同世代中の «最年長者» であったイヴァン・アンドレーエヴィチが公位を継いだものと考えられる。しかし、当時はすでにロストーフにモスクワ大公の代官が派遣されており、事実上モスクワ大公領に併合されていたと言ってもいい。ロストーフ(=ボリソグレーブスキー)公といっても名前だけの存在であった。とすれば、イヴァン・アンドレーエヴィチだけでなく弟たち、さらには従兄弟たち(フョードルイヴァンの遺児たち)もまたロストーフ(=ボリソグレーブスキー)公を名乗っていてもおかしくはない。

 1474年、ロストーフ=ボリソグレーブスキー公領はモスクワ大公イヴァン3世に売却された。しかしこの時、イヴァン・アンドレーエヴィチの名は言及されていない。すでにこの時点までに死んでいたものと思われる。

 添え名の «ブリュハートィー» は「腹の大きな」という意味。女性であれば「妊娠中の」という意味でも使われるが、この場合は単純に「太鼓腹の」という程度だろう。

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