フョードル・ロマーノヴィチ
Федор Романович
ベロオーゼロ公 князь Белозерский (1339-80)
生:?
没:1380.09.08
父:ベロオーゼロ公ロマーン・ミハイロヴィチ (ベロオーゼロ公ミハイール・グレーボヴィチ)
母:?
結婚:1339/40
& マリーヤ or フェオドーシヤ (モスクワ公イヴァン1世・カリター)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
1 | イヴァン | 1350-80 |
第15世代。モノマーシチ(ロストーフ系)。
生年は不明。
1338/39年、父の死で遺領を弟ヴァシーリーと分割。フョードルがベロオーゼロを、ヴァシーリーがスゴルスクを相続した。
1341年、ノーヴゴロドがベロオーゼロ公領に侵攻。これに対する報復として、モスクワ公セミョーン傲慢公がトルジョークを占領している。
なぜベロオーゼロ公領攻略への報復にモスクワ公が乗り出すのかも不思議だが、あるいはセミョーン傲慢公は同時にヴラディーミル大公でもあったので、ヴラディーミル大公として行動したということだろうか。
しかしノーヴゴロドがベロオーゼロ公領に侵攻したのは、モスクワ公に対する攻撃であった。父のロマーン・ミハイロヴィチはすでにセミョーン傲慢公の父イヴァン・カリターに圧迫されていたので、ベロオーゼロ公領はモスクワ公の属領と見なされていたのかもしれない。
1352年、黒死病でベロオーゼロは壊滅。白湖(ベーロエ・オーゼロ)北岸を棄てて、17km 離れた南岸に都市を再建した(現在のベロゼルスク)。
1359年にヴラディーミル大公だったモスクワ公イヴァン赤公が死ぬと、遺児ドミートリー・ドンスコーイが幼かったため、スーズダリ公ドミートリー・コンスタンティーノヴィチが大公位を継いだ。しかしこれにモスクワのボヤーリンが反発。サライにおける権力闘争ともからんで、ふたりのドミートリーの間に大公位を巡る争いが持ち上がった。
この争いでは、息子のイヴァン・フョードロヴィチがドミートリー・コンスタンティーノヴィチの側に立って動いているが、当時イヴァン・フョードロヴィチはまだローティーン。おそらくはフョードル・ロマーノヴィチ自身の命によるものだろう。
この争いは結局ドミートリー・ドンスコーイの勝利に終わるが、以後フョードル・ロマーノヴィチは事実上ドミートリー・ドンスコーイに従属していたと思われる。
1375年にはそのトヴェーリ遠征に従軍している。1380年、クリコーヴォの戦いにも従軍。息子とともに戦死した。