アンドレイ・フョードロヴィチ
Андрей Федорович
ロストーフ(=ウスレティンスキー)公 князь Ростовский(-Усретинский) (1331-1409)
生:?
没:1409−ロストーフ
父:ロストーフ公フョードル・ヴァシーリエヴィチ (ロストーフ公ヴァシーリー・コンスタンティーノヴィチ)
母:?
結婚:1347
& アントニーナ (スーズダリ公コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチ)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
1 | イヴァン | |||||
2 | フョードル | |||||
3 | ユーリー | -1413 | ||||
4 | コンスタンティーン | -1407 | ||||
5 | ミハイール | |||||
6 | ボリース |
第16世代。モノマーシチ(ロストーフ系)。
生年は不明。父の生年も不明だが、1311年とされることがある。その父の死が1331年だから、アンドレイ・フョードロヴィチの生年は早くても1320年代後半。おそらくは1330年前後だろう。
当然、父が1331年に死んだ時点ではまだ幼児であった(生まれたばかりだったかもしれない)。しかし父の代にロストーフはウスレティンスキー側とボリソグレーブスキー側に分割されており、アンドレイ・フョードロヴィチは父の領有したウスレティンスキー側を継承したはずである。「はずである」と言うのも、年代記にはしばらくアンドレイ・フョードロヴィチが登場せず、どうやらロストーフは、その全体が、ボリソグレーブスキー側を領有する叔父コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチに統治されていたらしくも思えるからである。この辺り、年代記の情報があまりに乏しく、何とも言えない。
その後1347年に結婚したらしいが、それ以外にかれについての情報はない。
1360年、ボリソグレーブスキー側を領有するコンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチがサライに伺候し、全ロストーフの支配を認める認可状をハーンから獲得した。
アンドレイ・フョードロヴィチはペレヤスラーヴリ=ザレスキーに逃亡。モスクワ公ドミートリー・ドンスコーイに支援を要請した。ドミートリー・ドンスコーイは当時まだ幼児だったが、府主教アレクシーやボヤーリンたちがアンドレイ・フョードロヴィチを支持。コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチが、当時ドミートリー・ドンスコーイとヴラディーミル大公位を激しく争っていたスーズダリ公ドミートリー・コンスタンティーノヴィチを支持していたこともあったのかもしれない。
1363年(1364年?)にはアンドレイ・フョードロヴィチはロストーフに帰還し、逆にコンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチがウーステュグに逃亡する羽目に陥った。
その後アンドレイ・フョードロヴィチは叔父と和解したとも言われる。いずれにせよ1365年にコンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチが死んだ後はその遺児が遺領を継ぎ、ロストーフの分割は固定化された。
以後、アンドレイ・フョードロヴィチはドミートリー・ドンスコーイの与党として(あるいはむしろ臣下として)、常に忠実に行動した。
1371年、モスクワ大公ドミートリー・ドンスコーイとともにサライに伺候。1375年、ドミートリー・ドンスコーイのトヴェーリ遠征に従軍。1380年、クリコーヴォの戦いではモスクワ軍の右翼を指揮した。
1408年、エディゲイの派遣したタタール軍がロストーフに襲来。アンドレイ・フョードロヴィチは住民を連れて避難し、ロストーフは焼き打ちされた。
死に際して修道士となる(修道名アファナーシー)。