リューリク家人名録

アレクサンドル・フョードロヴィチ «シチェパー»

Александр Федорович "Щепа"

プスコーフ公 князь Псковский (1410-12, 21-23, 29-34)

生:?
没:1442

父:フョードル・アンドレーエヴィチ公ロストーフ=ウスレティンスキー公アンドレイ・フョードロヴィチ
母:?

結婚①:
  & ? (ドミートリー・コンスタンティーノヴィチ・ゼルノフ)

結婚②:1412
  & マリーヤ (セールプホフ公イヴァン・ヴラディーミロヴィチ)???

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
ドミートリエヴナと
1ドミートリー

第18世代。モノマーシチ(ロストーフ系)。モスクワ大公の勤務公。

 1410年、プスコーフ公となる。
 年代記には、この時の事情について2説が記載されている。一方は、リトアニアの脅威にさらされたプスコーフ市民が直接アレクサンドル・フョードロヴィチを公として招聘したとするものである。他方で、アレクサンドル・フョードロヴィチはモスクワ大公ヴァシーリー1世により代官としてプスコーフに派遣されたとする記述もある。当時のプスコーフの状況からして、後者が正しいだろう。
 これまた事情は定かではないが、1412年、アレクサンドル・フョードロヴィチはプスコーフ市民と対立し、公位(代官の地位)を追われた。

 1421年、リトアニアの脅威に直面したプスコーフ市民の要請に応え、再びヴァシーリー1世はアレクサンドル・フョードロヴィチをプスコーフに派遣する(プスコーフ市民がアレクサンドル・フョードロヴィチを名指ししてきたらしい)。しかしこの時もアレクサンドル・フョードロヴィチは、2年後にプスコーフを去っている。

 1428年、依然として去らないリトアニアの脅威に、プスコーフ市民は改めてモスクワ大公ヴァシーリー2世にアレクサンドル・フョードロヴィチを派遣するよう要請。この時はさすがにアレクサンドル・フョードロヴィチも行くのをしぶり、息子ドミートリー・アレクサンドロヴィチを派遣した。しかしドミートリー・アレクサンドロヴィチはすぐにモスクワに帰還してしまう。
 1429年、改めてヴァシーリー2世に促され、ようやくアレクサンドル・フョードロヴィチはプスコーフに赴いた。

 プスコーフは当時、南から迫るリトアニア大公ヴィタウタス偉大公の脅威にさらされていた。ノーヴゴロド公位は形式上ヴァシーリー2世が兼ねていたが、ノーヴゴロド市民のモスクワに対する反発は強く、また独立したプスコーフを支援しようという機運も低く、プスコーフはノーヴゴロドの支援をあてにできなかった。このためアレクサンドル・フョードロヴィチは精力的にプスコーフ公領内の諸都市を要塞化し、新しい橋を架けるなど起こるべきリトアニアとの軍事衝突に備えた。
 しかし衝突の起こらないまま(ヴィタウタスは1430年に死に、リトアニアには内戦が勃発した)、1434年、アレクサンドル・フョードロヴィチはプスコーフを後にした。この時の事情もよくわからない。

 添え名の «シチェパー» は「木屑、木片」といったような意味だが。

 シチェピーン=ロストーフスキー公家の祖。19世紀に断絶した。

▲ページのトップにもどる▲

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

ロシア学事始
ロシアの君主
リューリク家
人名録
系図
人名一覧
inserted by FC2 system