フセーヴォロド
Всеволод
ゲルツィケ公 князь Герсикский
生:?
没:?
父:?
母:?
結婚:
& ? (リトアニア人の公ダウゲルティス)
子:?
出自不詳。
ラトヴィアのハインリヒが書いた年代記によれば、«Wiscewaldus» なる «ポーロツク王の息子» が、«ポーロツク王» «ヴォルデマール» の臣下としてイェルシカを支配していた。
«Wiscewaldus» は、«ポーロツク王の息子» とされている以上、ルーシ人であったことは間違いあるまい。とするならば、語学的に、«Wiscewaldus» に相当するのはフセーヴォロドであったろうと推定される(もちろん音的には «ヴィーシェヴォロド» などの方が妥当するが、そのような名の存在は知られていない)。
イェルシカは、現ラトヴィア南東部の都市で、当時のルーシ史料ではゲルツィケないしゲルシケと呼ばれていた。
1209年、リガ司教アルブレヒトはイェルシカを攻略。これを焼き払った。フセーヴォロドは逃亡したものの、妻や部下を捕虜とされた。アルブレヒトは捕虜を連れてリガに帰還すると、フセーヴォロドを召還。フセーヴォロドはリガに赴き、アルブレヒトに屈服してその宗主権を認めた。
1214年、リーヴ人攻略への軍事支援を断ったとして、アルブレヒトは再びイェルシケを攻略し、これを焼き払った。フセーヴォロドはリトアニア人と協力してドイツ人に対抗し、戦闘は1215年まで続いた。
その後の消息はよくわからない。ある説によると、1215年にイェルシケは焼き払われ、フセーヴォロドも戦死したという。しかし別の説によれば、フセーヴォロドは逃亡し、リトアニア人の協力を得てドイツ人を打ち破ったという。1225年、リヴォニアを訪問した教皇使節との会見にフセーヴォロドが同席していたとする史料がある。
ラトヴィアのハインリヒによれば、フセーヴォロドはキリスト教徒最大の敵であった。リトアニア人の公の娘を妻とし、リヴォニアのドイツ人に対してリトアニア人と同盟していた(なお当時のリトアニアはまだ国家的統一がなされておらず、各地に部族が割拠する状態だった)。
フセーヴォロドの岳父ダウゲルティスは、ダウギルティス、ダンゲルティスなどとも解されるが、当時もっとも強力なリトアニア人の公であったらしい。ノーヴゴロド側の年代記は何も記していないが、ダウゲルティスはノーヴゴロドと対ドイツ人攻守同盟を結んだらしい。
当コンテンツが基本的に依拠している Рыжов Константин. Монархи России. М., 2006 はポーロツク公ヴラディーミルの子(?)としており(?は Рыжов)、Рыжов はほかにも、ヴィテブスク系だとか第11世代だとか記しているが、それらはすべて推測、Рыжов の仮説にすぎない。
しかしソロヴィヨーフ以来、フセーヴォロドをボリース・ダヴィドヴィチの子ヴァシリコと同一視するのが一般的となっている。
とはいえソロヴィヨーフの説も全面的に受け入れられているわけではなく、ドルツク公ボリース・グレーボヴィチの子とする説、『イーゴリ軍記』に言及されるフセーヴォロド・ヴァシリコヴィチと同一視する説、スモレンスク公フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチと同一視する説などもある。