イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチ
Изяслав Владимирович
ポーロツク公 князь Полоцкий (987-1001)
生:980?
没:1001
父:キエフ大公ヴラディーミル偉大公 (キエフ公スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチ)
母:ログネーダ (ポーロツク公ローグヴォロド)
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
1 | フセスラーフ | -1003 | ポーロツク | |||
2 | ブリャチスラーフ | -1044 | ポーロツク |
第5世代。ヴラディーミル偉大公とログネーダ・ローグヴォロドヴナとの間の長男。ただし長男と言っても、それも状況証拠に基づいてのことで、確かな生年がわからないので絶対確実な事実ではない。
ポーロツク系の始祖。
正確な年代は不明ながら、986年か987年頃、母が父を殺そうとしたらしい(父が母を処刑しようとすると、イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチが自ら剣を持ってそれを阻んだらしい。父も息子の目の前でその母を殺すことができず、赦したとか)。あるいはそのためか、イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチは母とともに、父がポーロツクの地に建設した都市イジャスラーヴリに送られた。
ちょうどこの頃、父は諸子をルーシ各地に公として派遣し、地方統治を担当させている。あるいはイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチがイジャスラーヴリに赴いたのも、母の事件とは無関係だったかもしれない。
同じくこの頃(この辺り、正確な年代確定が不能)、父はキリスト教に改宗してビザンティン皇女と結婚している。当然母との関係は切れることになった(ビザンティン皇女が嫁入りしてくるのに、妾だらけの後宮を残しておくわけにはいかない)。母がイジャスラーヴリに送られたのは、これとも関連しているのかもしれないし、あるいは母が自らの意志で赴いたのかもしれない。
ヴラディーミル偉大公とログネーダ・ローグヴォロドヴナとの間の息子は4人いたとされているが、ログネーダ・ローグヴォロドヴナとともにイジャスラーヴリに赴いたのはイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチだけ、あるいは逆の言い方をすれば、ログネーダ・ローグヴォロドヴナはほかの息子ではなくイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチに同行している。
もちろんそれはイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチに与えられたのがポーロツクの地だったから、ということはあろうが、ではなぜほかの息子たちではなくイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチにログネーダ・ローグヴォロドヴナの故郷が与えられたのか、と考えてくれば、やはりイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチがヴラディーミル偉大公とログネーダ・ローグヴォロドヴナとの間の長男だったのだろう、という結論になる。
ログネーダ・ローグヴォロドヴナはヴラディーミル偉大公がポーロツクを征服した時にその妻(妾?)とされた。イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチは、当然その1年ないし数年後に生まれたものと想定できる。問題はポーロツク征服の年がはっきりしないことだが、おおよそ977年から980年までのいずれかであろうと考えられる。とすれば、イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチの生年は、早ければ970年代末、遅くとも980年代初頭であったであろう。
もし上の想定が正しいとすれば、イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチは、イジャスラーヴリに派遣された時にはまだせいぜい10歳(おそらくはそれより下)。
なお、父は自身の改宗にあわせて、息子たちにもキリスト教徒として洗礼を受けさせているが、イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチの洗礼名は不明。しかし母はのちに修道女になったとも伝えられており、だとすれば、イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチもキリスト教徒としての信仰はしっかり教えられただろう。
イジャスラーヴリという都市の名は、当然イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチにちなんだものだろう。いずれにせよイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチはその後、父により破壊されたポーロツクを再建し、そちらに移っている。
しかしイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチは父より先に没し、これといった功績は伝えられていない。享年がどう考えても20歳前後であれば、それも無理はないであろう。