ダヴィド・フセスラーヴィチ
Давыд Всеславич
ポーロツク公 князь Полоцкий (1127、28-29)
生:?
没:?
父:ポーロツク公フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチ (ポーロツク公ブリャチスラーフ・イジャスラーヴィチ)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
1 | ブリャチスラーフ | イジャスラーヴリ | ? | ムスティスラーフ偉大公 |
第8世代。ポーロツク系。
1101年の父の死から1127年までの四半世紀のポーロツク公位については、不明な点が多い。フセスラーヴィチ兄弟の長幼の順も不明で、長男ダヴィド・フセスラーヴィチが1101年から1127年までポーロツク公位にあったとする史料があるかと思えば、長男ロマーン(1101-16)、次男グレーブ(1116-19)、三男ボリース(1119-27)を経て四男ダヴィド・フセスラーヴィチがポーロツク公位を継承したとするものもある。
ダヴィド・フセスラーヴィチは、長男でなかったとするならば、いずこかの地を分領としてもらったのではないかと想像される。
1103年、キエフ大公スヴャトポルク・イジャスラーヴィチ、ヴラディーミル・モノマーフ等とともに対ポーロヴェツ人遠征に。
1104年、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチ、オレーク・スヴャトスラーヴィチ、ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチの連合軍がミンスクに侵攻して、兄(弟?)グレーブ・フセスラーヴィチを攻囲する。
この連合軍には、ダヴィド・フセスラーヴィチも加わっていたらしい。あるいは、年少の弟であったダヴィド・フセスラーヴィチは分領を与えられず、その不満から兄に敵対した、ということだったのかもしれない。
1106年、フセスラーヴィチ兄弟はセミガリア(現ラトヴィア中部)に遠征している。しかし大敗を喫した。
1127年、ポーロツク市民により公の座を追われる。ポーロツク公位は、ムスティスラーフ偉大公の要請でダヴィド・フセスラーヴィチの弟ローグヴォロド・フセスラーヴィチが継いだ。ただし学者の中にはローグヴォロド・フセスラーヴィチとボリース・フセスラーヴィチを同一人物と見なす者も多く、その場合はいったん公位を追われたボリース=ローグヴォロドが、再び公位を取り戻したということにもなるかもしれない。
1128年、ローグヴォロド・フセスラーヴィチ(=ボリース・フセスラーヴィチ?)が死ぬと、ダヴィド・フセスラーヴィチがポーロツク公に返り咲く。
1129年、ムスティスラーフ偉大公がダヴィド・フセスラーヴィチとヴィテブスク公スヴャトスラーフの兄弟にポーロヴェツ人遠征を要請してくるが、ダヴィド・フセスラーヴィチはこれを拒否。
ポーロヴェツ遠征を終えたムスティスラーフ偉大公は、ダヴィド・フセスラーヴィチ以下のポーロツク一族をキエフに召喚。ポーロツク市民はダヴィド・フセスラーヴィチを護ろうとはせず、ダヴィド・フセスラーヴィチ等はキエフに赴くことを余儀なくされた。
一族はそのままコンスタンティノープルに派遣された(体のいい追放)。
ルーシの年代記からはダヴィド・フセスラーヴィチは姿を消すが、史料の中には何に依ったか、コンスタンティノープルで兄弟は皇帝イオアンネス2世・コムネノスに迎えられ、そのヴァリャーグ親衛隊として仕えたとするものがある。
ダヴィド・フセスラーヴィチはルーシに帰還することはなかった。甥たちの中にも帰還しなかったと思われる者が多い。
さて、以上のような生涯を振り返ってみると、どうもダヴィド・フセスラーヴィチはフセスラーヴィチ兄弟の長男であったとは考えづらい。
と言うのも、兄弟の長男は1055年頃の生まれと想像されるからである(ロマーン・フセスラーヴィチの項を参照)。もしダヴィド・フセスラーヴィチが長男で1055年頃の生まれだとすると、コンスタンティノープルに追放された時点で75歳だったということになる。確かに父も70歳ぐらいまで生きているが、やはり年齢的に少々無理があるのではないだろうか。