ヤロスラーフ・フセヴォローディチ
Ярослав Всеволодич
ロプニャ公 князь Ропенский (1158)
チェルニーゴフ公 князь Черниговский (1177-98)
生:1139
没:1198
父:チェルニーゴフ公フセーヴォロド・オーリゴヴィチ (チェルニーゴフ公オレーグ・スヴャトスラーヴィチ)
母:アガーフィヤ (ムスティスラーフ偉大公)
結婚:
& イリーナ
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
1 | ザバーヴァ | ヴラディーミル・グレーボヴィチ | 1157-87 | ペレヤスラーヴリ公 | ||
2 | ヤロポルク | ノーヴゴロド | ||||
3 | ロスティスラーフ | 1174- | スノフスク | フセスラーヴァ | ヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公 |
第9世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。
兄スヴャトスラーフ・フセヴォローディチとは年の離れた弟だったように思われる。1164年に兄がチェルニーゴフ公となった時にも、特に分領を与えられた形跡はない。すでにそれ以前にロプニャ(?)の分領公だったとする史料もあったが、よくわからない。
1168年(67年?)、ヴラディーミル=ヴォルィンスキー公ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチが、12人の公を招集してポーロヴェツ人に対する遠征を実施したが、ヤロスラーフ・フセヴォローディチもこれに参加している。
1174年、兄が一旦キエフ大公となるが、すぐに失う。しかし1177年には、当時南ルーシ最大の勢力であったスモレンスクのロスティスラーヴィチ兄弟と講和し、キエフ大公位を確保する。
これに伴い、ヤロスラーフ・フセヴォローディチがチェルニーゴフ公になったと考えられている。ただし確実な話ではなく、ヤロスラーフ・フセヴォローディチがチェルニーゴフ公となった正確な年は不明。もっとも、正確も何も、1177年以降兄がキエフに居住していた以上、ヤロスラーフ・フセヴォローディチが形式はどうあれチェルニーゴフ公となったと言っていいだろう。
もっとも、これには異説もある。言葉で説明してもややこしいだけなので、細かい異説は省き、簡単に以下テーブルで図示する。なお、背景色の水色がチェルニーゴフ系、ピンク色がセーヴェルスキー系を表す。
チェルニーゴフ | セーヴェルスキー | |
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1164 | スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ | オレーグ・スヴャトスラーヴィチ |
1177 | ヤロスラーフ・フセヴォローディチ | |
1180 | イーゴリ・スヴャトスラーヴィチ |
チェルニーゴフ | セーヴェルスキー | |
---|---|---|
1164 | スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ | オレーグ・スヴャトスラーヴィチ |
1177 | オレーグ・スヴャトスラーヴィチ | イーゴリ・スヴャトスラーヴィチ |
1180 | ヤロスラーフ・フセヴォローディチ |
チェルニーゴフ | セーヴェルスキー | |
---|---|---|
1164 | スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ | オレーグ・スヴャトスラーヴィチ |
1177 | ヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチ | |
1180 | ヤロスラーフ・フセヴォローディチ | イーゴリ・スヴャトスラーヴィチ |
1177という数字が1174だったり1178だったりすることもある。
いずれにせよ、当時の慣習からしてC説はない。息子よりも弟が優先するのが当時の慣習だった。
おそらく一般的なのがA説だろうが、B説にもそれなりの説得力はある。兄が、かつてチェルニーゴフ公位を争った従兄弟に、キエフ大公となった時点でチェルニーゴフ公位を譲ったということも十分考えられることである(おそらくオレーグ・スヴャトスラーヴィチの方がヤロスラーフ・フセヴォローディチより年長だと思われるし)。
1187年、まだ幼い息子ロスティスラーフの妻に、ヴラディーミル=スーズダリ公フセーヴォロド大巣公の娘を迎える。兄のキエフ大公位に大きな影響力を持っていたフセーヴォロド大巣公と結んでおこうという意図の表れだろう。
1194年、兄のキエフ大公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチが死去。ヤロスラーフ・フセヴォローディチはキエフ大公位を狙い、兄の跡を襲ったリューリク・ロスティスラーヴィチと争う。同じくリューリク・ロスティスラーヴィチと対立したヴラディーミル=ヴォルィンスキー公ロマーン偉大公と同盟。
1196年、リューリク・ロスティスラーヴィチがヴォルィニに軍を派遣すると、その隙を衝いてヤロスラーフ・フセヴォローディチはキエフに侵攻。さらに甥のオレーグ・スヴャトスラーヴィチをヴィテブスクに派遣した。
これに対してリューリク・ロスティスラーヴィチと同盟を結ぶフセーヴォロド大巣公がチェルニーゴフに侵攻。ヤロスラーフ・フセヴォローディチはフセーヴォロド大巣公と講和した。
逆にヤロスラーフ・フセヴォローディチとフセーヴォロド大巣公、さらにロマーン偉大公とが共同してリューリク・ロスティスラーヴィチと対立することになった。
1196年、ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチを追ったノーヴゴロド市民の要請で、息子のヤロポルクをノーヴゴロド公として派遣する。
しかしヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチの妻はフセーヴォロド大巣公の妻の姉妹であり、このため1197年にはフセーヴォロド大巣公の後押しでヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチがノーヴゴロド公に返り咲いた。
チェルニーゴフの聖スパース教会に埋葬されている。