リューリク家人名録

フセーヴォロド・オーリゴヴィチ

Всеволод Ольгович

チェルニーゴフ公 князь Черниговский (1127-39)
キエフ大公 великий князь Киевский (1139-46)

生:1094
没:1146.06.30−ヴィーシュゴロド近郊

父:チェルニーゴフ公オレーグ・スヴャトスラーヴィチキエフ大公スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチ
母:テオファヌ・ムザロン

結婚:1116
  & アガーフィヤ公女 -1179 (ムスティスラーフ偉大公

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
アガーフィヤ・ムスティスラーヴナと
1アンナ-1141イヴァン・ヴァシリコヴィチ-1141ガーリチ公
2スヴャトスラーフ-1194チェルニーゴフマリーヤポーロツク公ヴァシリコ・スヴャトスラーヴィチ
3ズヴェニスラーヴァヴロツワフ公ボレスワフ1世長身公1127-1201ポーランド王ヴワディスワフ2世亡命王
4ヤロスラーフ1139-98チェルニーゴフ
母親不詳
?ヴラディーミル-1201
?スヴャトポルク-1162

第8世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。洗礼名キリール。
 チェルニーゴフ系オーリゴヴィチの始祖。

 活動開始時期その他から、オーリゴヴィチ兄弟の長男であったと考えるのが妥当だろう。生年については10年早い1084年とする説もある。両親の結婚が1080年代初頭と考えられるのでその方が妥当なようだが、いずれにせよ推測でしかない。

 1111年、キエフ大公スヴャトポルク・イジャスラーヴィチに従い対ポーロフツィ遠征に従軍(父は従軍していない)。

 1115年、父が死去。その分領ノーヴゴロド=セーヴェルスキーを誰が相続したかはっきりしないが、独自の公が立てられた形跡がない。おそらく、チェルニーゴフ公であった伯父ダヴィド・スヴャトスラーヴィチが自領に併合したのだろう。当時すでに20歳だったフセーヴォロド・オーリゴヴィチにしてみれば不本意な決定だっただろう。
 そのダヴィド・スヴャトスラーヴィチも1123年に死去。しかし別の叔父である、ムーロム公ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチがチェルニーゴフもノーヴゴロド=セーヴェルスキーもまとめて相続したらしく、スヴャトスラーヴィチ一族の «ヴォーッチナ(父祖伝来の地)» は一時的にヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチによって統一された。

 1127年(1126年との説も?)、フセーヴォロド・オーリゴヴィチはヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチからチェルニーゴフとノーヴゴロド=セーヴェルスキーを奪う。これに義父であるキエフ大公ムスティスラーフ偉大公が弟ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチとともに懲罰を加えようと出陣。しかしフセーヴォロド・オーリゴヴィチはキエフのボヤーリンたちを買収し、ムスティスラーフ偉大公との平和を維持した。この時ムスティスラーフ偉大公にクールスクを割譲したとも言われる。
 ここで想像を巡らせて邪推すると、1125年にヴラディーミル・モノマーフが死んでムスティスラーフ偉大公がキエフ大公位を継いでいる。あるいは、舅のムスティスラーフ偉大公と娘婿のフセーヴォロド・オーリゴヴィチとの間に何らかの «密約» があったのかもしれない。

 1132年、ムスティスラーフ偉大公が死去。弟のヤロポルク・ヴラディーミロヴィチが大公位を継ぐが、ムスティスラーフ偉大公の遺児たち、また別の弟ユーリー・ドルゴルーキーアンドレイ善良公などモノマーシチ一族内で内紛が勃発。フセーヴォロド・オーリゴヴィチは弟たちとともにムスティスラーフ派としてヤロポルク・ヴラディーミロヴィチと争う。
 結局ムスティスラーヴィチ兄弟(甥たち)に譲歩してキエフ大公位を確保したヤロポルク・ヴラディーミロヴィチだったが、3派に分裂したモノマーシチ一族の内紛は続いた(基本的にヤロポルク・ヴラディーミロヴィチとムスティスラーヴィチ兄弟が同盟して、ユーリー・ドルゴルーキー & アンドレイ善良公連合と対立)。
 これにフセーヴォロド・オーリゴヴィチはポーロヴェツ人を引き入れて介入した。そしてオーリゴヴィチ兄弟の勢力拡大に対しては、モノマーシチ一族も団結して抵抗した。

 1135年、フセーヴォロド等オーリゴヴィチ兄弟はペレヤスラーヴリに侵攻し、アンドレイ善良公と戦う。救援に駆け付けたヤロポルク・ヴラディーミロヴィチを破り、ペレヤスラーヴリ攻囲を放棄してヴィーシュゴロドに侵攻。これも陥とせず、結局チェルニーゴフに帰還した。
 冬になるとポーロヴェツ人と結んでキエフに侵攻。キエフは陥とせなかったものの、ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチからクールスクを奪い返した(これを弟グレーブ・オーリゴヴィチに与える)。

 1136年、ノーヴゴロド市民が叛乱を起こし、フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチ(ムスティスラーヴィチ兄弟の長兄)を追放。代わりにフセーヴォロド・オーリゴヴィチの弟スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチを公として迎えた。
 当然これはモノマーシチとオーリゴヴィチの対立の産物であったが、同時に公権力と民会というノーヴゴロド内部の対立にも起因する。このため、ある意味誰が公になろうとノーヴゴロド市民は反発する構図が出来ており、その結果1138年、ノーヴゴロド市民は今度はスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチに対して反抗し、ロスティスラーフ・ユーリエヴィチユーリー・ドルゴルーキーの子)を公として迎えた。リューリコヴィチの支配からの脱却傾向を強めるノーヴゴロドが、モノマーシチ一族とオーリゴヴィチ兄弟の対立に乗じて、公位を左右するようになったわけである。
 フセーヴォロド・オーリゴヴィチはこれを口実に、またしてもモノマーシチ一族との戦闘を再開。ペレヤスラーヴリに侵攻したが、結局アンドレイ善良公と講和した。しかしチェルニーゴフに帰還したフセーヴォロド・オーリゴヴィチを追うように、ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチ率いるキエフ、ロストーフ、ペレヤスラーヴリ、スモレンスク、ポーロツク、ガーリチ、ハンガリー連合軍がチェルニーゴフに侵攻。フセーヴォロド・オーリゴヴィチは屈服を余儀なくされた。

 1139年、ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチが死去。その弟ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチが後を継ぐと、フセーヴォロド・オーリゴヴィチはキエフに侵攻。ヴィーシュゴロドを占領すると、ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチはキエフを明け渡して自領トゥーロフに帰還し、こうしてフセーヴォロド・オーリゴヴィチがキエフ大公となった。
 キエフ大公位は、1113年以来モノマーシチ一族が占有しており、それ以前を含めると1076年からイジャスラーヴィチとモノマーシチとが独占していて、スヴャトスラーヴィチでキエフ大公位を獲得したのは祖父スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチ以来63年振りのことだった。

 モノマーシチ一族は一致結束してスヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ兄弟とダヴィドヴィチ兄弟)をはじめとするほかのリューリコヴィチを権力の中枢から排除してきていたが、その中でフセーヴォロド・オーリゴヴィチと長年にわたって友好関係を維持していたのがイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチだった。フセーヴォロド・オーリゴヴィチはイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチに、自分の死後キエフ大公位を譲渡することを約束して懐柔し、友好関係の維持に努めた。
 こうして、モノマーシチ一族の «直系»(当時はあまり直系とか傍系とかは重要な要素ではなかったと思われるが)であるムスティスラーヴィチ兄弟はイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチと同盟することで無力化したフセーヴォロド・オーリゴヴィチだったが、ほかのモノマーシチ、具体的にはヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチのすぐ下の弟であるユーリー・ドルゴルーキー、そして末弟アンドレイ善良公と対立。
 ペレヤスラーヴリに侵攻したオーリゴヴィチ兄弟だったが、スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチアンドレイ善良公に敗北すると、フセーヴォロド・オーリゴヴィチはアンドレイ善良公と講和。おそらくこの講和で、アンドレイ善良公はモノマーシチ一族と共同してフセーヴォロド・オーリゴヴィチに対抗することを放棄したと見られ、フセーヴォロド・オーリゴヴィチはアンドレイ善良公を無害化することに成功した。
 こうして、モノマーシチ一族で残る敵はユーリー・ドルゴルーキーだけとなった(ただしユーリー・ドルゴルーキーはまだこの頃は南ルーシ情勢に積極的に介入しては来なかった)。

 キエフ大公となったフセーヴォロド・オーリゴヴィチはチェルニーゴフ(とノーヴゴロド=セーヴェルスキー)を、ダヴィドヴィチ兄弟の長兄ヴラディーミル・ダヴィドヴィチに与える。しかしこの措置にフセーヴォロド・オーリゴヴィチの次弟イーゴリ・オーリゴヴィチが不満を持ち、ヴラディーミル・ダヴィドヴィチと、のみならず兄のフセーヴォロド・オーリゴヴィチとも対立した。
 もともとスヴャトスラーヴィチの «ヴォーッチナ(父祖伝来の地)» は、少なくとも地図の上で見る限り、決して狭小とは言えない。しかしそれぞれ独自の系統がしっかり根を張っているポーロツクとガーリチを除くと、残るトゥーロフ、ペレヤスラーヴリ、ヴォルィニ、スモレンスク、ロストーフ=スーズダリをすべてモノマーシチが支配している現状を考えれば、ノーヴゴロドを奪回して弟スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチに再び与えたとはいえ、オーリゴヴィチ3兄弟とダヴィドヴィチ2兄弟のあわせて5人が支配する分領としてチェルニーゴフとノーヴゴロド=セーヴェルスキーだけというのはいかにも少なすぎる(ちなみにムーロム=リャザニもスヴャトスラーヴィチの «ヴォーッチナ» だったが、別系統の分領となっていた。またまたちなみに、イジャスラーヴィチはおそらくこの時点では独自の分領を持っていなかったが、当時イジャスラーヴィチに属するのはただひとりだけだった)。
 だからこそフセーヴォロド・オーリゴヴィチはアンドレイ善良公と戦ってペレヤスラーヴリを奪おうとし、一時は同盟相手のイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチのヴォルィニにも食指を伸ばしたが、いずれも失敗に終わった。

 1140年、ポーランド王ヴワディスワフ2世亡命王と同盟。

 1141年、再びノーヴゴロドにおける政変により、スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチが公位を追われた。一旦はロスティスラーフ・ユーリエヴィチが公位を奪還するが、結局はスヴャトポルク・ムスティスラーヴィチが公に招かれ、潜在的に対立する3陣営の中でムスティスラーヴィチ兄弟が利を得た形になった。
 こうして自前の領土を失ったスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチが、イーゴリ・オーリゴヴィチとともに不満分子として不安定要素となることを危惧したのか、フセーヴォロド・オーリゴヴィチはスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチに自領からベールゴロドを割いて与え、やがて翻意してヴラディーミル・ダヴィドヴィチの分領からノーヴゴロド=セーヴェルスキーを割いて与えた。しかしこの措置はどうやらスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチを満足させなかったらしく、それどころかヴラディーミル・ダヴィドヴィチにも不満を残す結果となった。

 1142年、アンドレイ善良公の死に際して、自分が追い出した前キエフ大公ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチにペレヤスラーヴリを、息子スヴャトスラーフにトゥーロフを与える。モノマーシチ一族に対する融和措置であったろう。
 この処置に弟たちが反発し、キエフにてフセーヴォロド、イーゴリスヴャトスラーフのオーリゴヴィチ3兄弟、ヴラディーミルイジャスラーフのダヴィドヴィチ2兄弟が、スヴャトスラーヴィチ一族の分領について談合。
 これは決裂し、イーゴリスヴャトスラーフヴラディーミルイジャスラーフのスヴャトスラーヴィチ連合がペレヤスラーヴリに侵攻。イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチの救援に駆け付け、スヴャトスラーヴィチ連合は敗北した。
 フセーヴォロド・オーリゴヴィチは、修道士となって世俗を棄てていたダヴィドヴィチ兄弟の3人目スヴャトスラーフ・ダヴィドヴィチの仲介で4人と和解し、若干の都市をそれぞれに与えた。しかしその程度で満足できるはずもなく、スヴャトスラーヴィチ一族内の不満は残った。
 しかも結局この年のうちにヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチをトゥーロフに戻し、長男スヴャトスラーフ・フセヴォローディチをヴォルィニに移して、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチをペレヤスラーヴリに呼び寄せた。おそらくはイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチにした「自分の死後にキエフ大公位を譲る」との約束に基づく行動だったろう。

 1143年、弟たちと争っていた娘婿ヴワディスワフ2世のため、長男スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ、弟イーゴリ・オーリゴヴィチ、従兄弟イジャスラーフ・ダヴィドヴィチガーリチ公ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチをポーランドに派遣する。
 しかし戦役の終了後、フセーヴォロド・オーリゴヴィチとヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチとの対立が表面化(ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチは、フセーヴォロド・オーリゴヴィチに反抗するイーゴリ・オーリゴヴィチと仲が良く、しかも東隣のヴォルィニを支配するスヴャトスラーフ・フセヴォローディチと対立していた)。ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチはハンガリー王ゲーザ2世と同盟してこれに対抗。
 1144年、フセーヴォロド・オーリゴヴィチ自身ガーリチに親征。戦闘らしい戦闘は行われなかったが、ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチを屈服させた。
 フセーヴォロド・オーリゴヴィチは、ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチと対立していたその甥イヴァン・ベルラードニクを支援。1145年、イヴァン・ベルラードニクは一旦ガーリチ市民に乞われてその公となるも、結局叔父に敗北し、自らの分領を棄てて逃亡した。

 年代記によるとまだ1145年の内に、フセーヴォロド・オーリゴヴィチはスヴャトスラーヴィチ一族とイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチを呼び寄せ、自分の死後キエフ大公位を次弟イーゴリ・オーリゴヴィチに与えることを決めた。当然イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは反発したが、何もできず、結局は同意した。
 せめて死に臨んでは兄弟喧嘩を終わらせたいと思ったのか、長年にわたり蔑ろにしてきた弟に対する、せめてもの罪滅ぼしという気持ちだったのだろうか。だとすると、結局は裏目に出ることになるのだが。

 1146年、フセーヴォロド・オーリゴヴィチは再びガーリチに親征。ズヴェニーゴロドを攻囲するが、病に陥って撤退を余儀なくされた。

 キエフでは市民を搾取したため非常に嫌われていたらしい。かれの死後キエフ市民が蜂起してイーゴリ・オーリゴヴィチが殺されるが、兄のツケを払わされたわけだ。

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