リューリク家人名録

オレーグ・スヴャトスラーヴィチ

Олег Святовлавич

チェルニーゴフ公 князь Черниговский (1202-04)

生:?
没:1204

父:チェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチチェルニーゴフ公フセーヴォロド・オーリゴヴィチ
母:マリーヤ (ポーロツク公ヴァシリコ・スヴャトスラーヴィチ

結婚:
  & ? -1167 (ペレヤスラーヴリ公アンドレイ善良公

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
アンドレイ善良公の娘と
ボリース
1ダヴィドスタロドゥーブ
リューリク

第10世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。

 スヴャトスラーヴィチ5兄弟の生年、長幼の順はどちらも確かなことが言えない。
 1180年にノーヴゴロド公となったヴラディーミルは、ノーヴゴロドの重要性や、これまで代々キエフ大公の長男が就任してきたこと等からして、長男の最有力候補と言えるだろう。
 一方で、ヴラディーミル以下の4兄弟が全員1180年前後に結婚しているのに対して(再婚という可能性もあるが)、オレーグの妻はすでに1165年・67年に死んだとされている(これも確実ではないが)。とすると、オレーグ・スヴャトスラーヴィチはかなり早い時期に結婚したのではないかと想像される。
 両親の結婚は1143年のこととされているので、むしろオレーグ・スヴャトスラーヴィチ以外の兄弟の結婚が遅すぎるのだが、このように考えてくると、オレーグ・スヴャトスラーヴィチが長男だったのではないかとも思えてくる。実際歴史に登場したのもおそらく最も早かったし。
 とすると、両親の結婚が1143年とされていることから、1140年代半ば辺りの誕生だったと見ることができるだろう。ところが、1198年にチェルニーゴフ公となったのは、1150年頃の生まれと考えられるイーゴリ・スヴャトスラーヴィチである。当時のオーリゴヴィチ一族では最年長者がチェルニーゴフ公になるという慣習があったようだから、オレーグ・スヴャトスラーヴィチはイーゴリ・スヴャトスラーヴィチより年少、すなわち1150年代の生まれということになる。
 なお、名前不明の妻の父は(確かにアンドレイ善良公だったとして)、1141年には死んでいる。政略結婚だったろうから多少の年齢差はあって不思議がないにしても、オレーグ・スヴャトスラーヴィチの生年が1150年代だとは少々考えづらいところだ。
 しかし逆にオレーグをより年少の弟とする説もあるようだ。その根拠は、かれがチェルニーゴフ公になっていないとも考えられるからである(この点後述)。

 1174年、父がキエフを占領。しかしキエフを巡る諸公間の争いが続き、キエフもすぐに失われる。ようやく父のキエフ大公位が安定化するのは1177年以降。
 1176年、父により北東ルーシに派遣され、ユーリエヴィチ兄弟の妻を、自身の «ヴォーロスティ» であるロパースニャにかくまった。さらにリャザニ公グレーブ・ロスティスラーヴィチと戦う。

 «ヴォーロスティ» とは「領地」という程度の意味だが、«クニャージェストヴォ»、すなわち「公領」とは異なる意味で使われている。«ヴォーロスティ» とは具体的にはひとつないし複数の農村共同体である。この場合のロパースニャは、オレーグが公として支配する分領ではなく、単に生活費を徴収するための私領であろう。自前の分領を持たない公たちでも(厳密にはそういう連中は «公» ではないが)、たいていは «ヴォーロスティ» を有していた。スヴャトスラーヴィチ兄弟の分領はよくわからないが、オレーグのロパースニャのように、«ヴォーロスティ» はそれぞれが持っていたはずである。
 ちなみに、チェルニーゴフ公位は叔父のヤロスラーフ・フセヴォローディチに与えられたらしい(長兄ヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチに与えられたとする文献もある)。

 1180年から81年にかけての冬、父によりチェルニーゴフに派遣される。

 1183年、父のポーロヴェツ遠征に従軍。

 1194年、父が死去。
 この頃(1190年から?)、オレーグ・スヴャトスラーヴィチはスタロドゥーブ公だったとする説がある。そのため、息子ダヴィド・オーリゴヴィチの子孫から、スタロドゥーブ系の系図を再構築しようと試みる向きもあるようだ。しかしモンゴルによる攻略(1239)以降、スタロドゥーブ及び周辺の記録は混乱・欠落が甚だしく、必ずしも通説とはなっていないようだ。

 1196年、キエフ大公リューリク・ロスティスラーヴィチ(スモレンスク系)と対立する叔父ヤロスラーフ・フセヴォローディチに派遣され、ヴィテブスクに侵攻。これに対してスモレンスク公ダヴィド・ロスティスラーヴィチは甥のムスティスラーフ老公を派遣(当時のヴィテブスク公ダヴィド・ロスティスラーヴィチの娘婿ヴァシリコ・ブリャチスラーヴィチ?)。
 オレーグ・スヴャトスラーヴィチは一旦は敗北するものの(息子ダヴィドが戦死したとも言われる)、ポーロツク系諸公の支援を得て、ムスティスラーフ老公を捕虜とする。

 1198年、ヤロスラーフ・フセヴォローディチが死去。これ以降のチェルニーゴフ公位とノーヴゴロド=セーヴェルスキー公位がよくわからない。
 言葉で説明しても面倒臭いので、細かい異説は省き、簡単に以下テーブルで図示する。なお、背景色の水色がチェルニーゴフ系を、ピンク色がセーヴェルスキー系を表す。

A説
チェルニーゴフセーヴェルスキー
1198イーゴリ・スヴャトスラーヴィチヴラディーミル・イーゴレヴィチ
1202オレーグ・スヴャトスラーヴィチ
1204フセーヴォロド・スヴャトスラーヴィチ
B説
チェルニーゴフセーヴェルスキー
1198イーゴリ・スヴャトスラーヴィチオレーグ・スヴャトスラーヴィチ
1202オレーグ・スヴャトスラーヴィチローグヴォロド・スヴャトスラーヴィチ
1204フセーヴォロト・スヴャトスラーヴィチグレープ・スヴャトスラーヴィチ
C説
チェルニーゴフセーヴェルスキー
1198イーゴリ・スヴャトスラーヴィチヴラディーミル・イーゴレヴィチ
1202フセーヴォロド・スヴャトスラーヴィチ

 チェルニーゴフ公位だけに限って言えば、要するにオレーグ・スヴャトスラーヴィチがチェルニーゴフ公になっているかどうかの違いだけで、なっていないとする説は少数派だろう。おそらくなっていないとする説の根拠は、1202年から1204年までの期間に限定して言えば、オレーグ・スヴャトスラーヴィチが何をしていたかわからないのに対して、フセーヴォロド・スヴャトスラーヴィチがいきなり南ルーシの主役のひとりに躍り出ているからである。確かにその活躍ぶりを見ていると、どう考えてもこの時期のチェルニーゴフ公フセーヴォロド・スヴャトスラーヴィチだったとしか思えない(そしてもしそうだとするならば、オレーグはフセーヴォロドの弟だということになるだろう)。
 もうひとつの問題は、1198年の時点でオレーグ・スヴャトスラーヴィチがノーヴゴロド=セーヴェルスキー公となったか否か(そしてその後は弟たちが引き継いだか否か)である。この点に関してもよくわからないとしか言いようがないが、これまでスヴャトスラーヴィチ一族・オーリゴヴィチ一族の最年長者がチェルニーゴフ公位に、次の年長者がノーヴゴロド=セーヴェルスキー公位に就いてきた歴史を振り返ってみれば、B説がありそうな気がする。ヴラディーミル・イーゴレヴィチの生年は1170年頃とされていて、どう考えてもスヴャトスラーヴィチ兄弟の方が10歳以上年上である。少なくとも父子でチェルニーゴフとノーヴゴロド=セーヴェルスキーとを独占したとするA説(それで言えばC説も同様)よりは蓋然性が高いように思われる。
 さらにこれを補強する(かもしれない)事実として、ヴラディーミル・イーゴレヴィチやその弟たちは1205年以降ガーリチに侵攻し、そこに根をおろそうとしている。ノーヴゴロド=セーヴェルスキー公でも何でもなかったからこそ、ガーリチに領土を求めたということなのではないだろうか。

 話がこのように込み入ってしまうのも、結局はこの時期すでにチェルニーゴフ(とノーヴゴロド=セーヴェルスキー)が年代記作者にとってはどうでもいい存在になっていたからであろう。オレーグ・スヴャトスラーヴィチにしても、チェルニーゴフ公だったにせよノーヴゴロド=セーヴェルスキー公だったにせよ、その事績は特段知られていない。

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