リューリク家人名録

オレーグ・スヴャトスラーヴィチ «ゴリスラーヴィチ»

Олег Святославич "Гориславлич"

ヴラディーミル=ヴォルィンスキー公 князь Владимирский (1073-78)
チェルニーゴフ公 князь Черниговский (1078、94-97)
トムタラカーニ公 князь Тмутараканский (1083-94)
ノーヴゴロド=セーヴェルスキー公 князь Новгород-Северский (1097-1115)

生:1055頃
没:1115.08.01

父:キエフ大公スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチキエフ大公ヤロスラーフ賢公
母:?

結婚①:
  & テオファノ・ムザロニッサ

結婚②:
  & ? (ポーロヴェツ公女)

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
テオファノ・ムザロニッサと
1フセーヴォロド1094-1146キエフアガーフィヤ-1179ムスティスラーフ偉大公
2イーゴリ-1147キエフ
ポーロヴェツ公女と?
3グレーブ-1138クールスク
4スヴャトスラーフ-1164ノーヴゴロドエカテリーナポーロヴェツ公女
マリーヤ-1166ノーヴゴロド市長ペトリーラ
母親不詳
イヴァン-1148

第7世代。スヴャトスラーヴィチ。洗礼名ミハイール。
 オーリゴヴィチ(チェルニーゴフ系)の始祖。

 スヴャトスラーヴィチ5兄弟の長幼の順は必ずしもはっきりしないが、グレーブロマーンがそれぞれ長男、次男であったことは、その経歴から見ても間違いあるまい。またヤロスラーフが末男であったことにも異論はなさそうだ。
 問題はダヴィドとオレーグのどちらが三男、どちらが四男だったか、である。早くから活発に活動をしていたのはオレーグの方だが、ダヴィドの方を «兄» と明記している史料も少なくない。1097年にセーヴェルスカヤ・ゼムリャーが兄弟の «ヴォーッチナ(父祖伝来の地)» として認められた時、中心都市チェルニーゴフをダヴィドに譲り、オレーグがノーヴゴロド=セーヴェルスキーに «引っ込んで» いることを考えると、オレーグが弟であったと考えた方が、確かにいいのかもしれない。確定はできないものの、ここでは一応オレーグ・スヴャトスラーヴィチを四男としておく。ダヴィドが大人しい兄だったとすれば、オレークはやんちゃな弟だったというところか。
 生年は1050年代初頭のことだろうと思われる。何に依ったか、1053年とする史料がある。

 1073年、父が伯父イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチを追ってキエフ大公に。父と叔父フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチが協調してキエフ・ルーシを統治する。オレーグはフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチの領土であったロストーフを、次いでイジャスラーフ・ヤロスラーヴィチの領土であったヴォルィニを委ねられたと言われる。

 ただし『原初年代記』での初出は1076年。この年、父によりチェコに派遣され、従兄弟ヴラディーミル・モノマーフとともに、ポーランド王ボレスワフ2世鷹揚王を助けて、シレジアでボヘミア王ヴラティスラフ2世と戦う。
 この年、父が死に、フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチキエフ大公に。しかし翌1077年、イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチが和解し、イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチキエフ大公位を奪回する。以後イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチとが、イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチの死後はその子らとフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチとが協調する新体制のもと、スヴャトスラーヴィチ兄弟は疎外されていく。早くも1077年にオレーグ・スヴャトスラーヴィチはヴォルィニを追われたと思われ、『原初年代記』は1077年の項でオレーグ・スヴャトスラーヴィチがチェルニーゴフのフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチのもとにいたと記している。

 1078年、オレーグ・スヴャトスラーヴィチは、チェルニーゴフから父の領土のうち唯一残ったトムタラカーニへと逃亡する(ここは次兄ロマーン・スヴャトスラーヴィチが公として統治していた)。その直後、長兄のノーヴゴロド公グレーブ・スヴャトスラーヴィチが死去。これに伴い、ノーヴゴロドはイズャスラーフ・ヤロスラーヴィチに取り上げられた。
 トムタラカーニでオレーグ・スヴャトスラーヴィチは従兄弟ボリース・ヴャチェスラーヴィチと合流し、伯父たちに対する甥たちの叛乱を興す。ポーロヴェツ人の支援も得て、まずフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチを破りチェルニーゴフを占領。さらにキエフに侵攻するが、イズャスラーフ & フセーヴォロド連合軍に敗北。イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチを戦死させるが、ボリース・ヴャチェスラーヴィチも敗死し、オレーグ・スヴャトスラーヴィチは再びトムタラカーニに逃亡する。キエフ大公位はフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチが継承した。

 1079年、ロマーン & オレーグのスヴャトスラーヴィチ兄弟は、ポーロヴェツ人を率いてルーシに侵攻。ペレヤスラーヴリ近郊で迎え撃ったフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチはポーロヴェツ人と講和し、ポーロヴェツ人はステップに帰還するに際して行き掛けの駄賃とばかりにロマーン・スヴャトスラーヴィチを殺して去った。
 ひとり残されたオレーグ・スヴャトスラーヴィチは、トムタラカーニに在住していたハザール人に追われてコンスタンティノープルへ。ロードス島に幽閉されたらしい。もっとも、テオファノ・ムザロニッサと結婚したのはこの時期だとも言われる。ただし長男と思われるフセーヴォロドの誕生が1094年とされているので、結婚はもっと後か?
 なお、テオファノ・ムザロニッサは、13世紀・14世紀に活躍したビザンティン帝国の名家ムザロン家から、歴史に名を残した最初の人物。ただし記録上は、彼女がオレーグ・スヴャトスラーヴィチの妻であったかどうかは必ずしもはっきりしない。

 1083年、オレーグ・スヴャトスラーヴィチはビザンティンの支援を得て、トムタラカーニに帰還。
 オレーグ・スヴャトスラーヴィチ不在中のトムタラカーニは、フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチが代官ラティボールを派遣したが、ヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチと従兄弟ダヴィド・イーゴレヴィチがラティボールを追って支配していた。
 オレーグ・スヴャトスラーヴィチはふたりの公を追い、かつてかれを追ったハザール人を殺して、トムタラカーニの支配権を確立した。
 以後、オレーグ・スヴャトスラーヴィチの動静は10年にわたって聞かれなくなる。トムタラカーニで復仇の時を待っていたのか。

 1093年、キエフ大公フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチが死去。スヴャトポルク・イジャスラーヴィチキエフ大公位を継ぐ。イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチがキエフ・ルーシを独占支配する二頭体制は、それぞれの子スヴャトポルク・イジャスラーヴィチヴラディーミル・モノマーフに引き継がれた。
 1094年、オレーグ・スヴャトスラーヴィチはポーロヴェツ人の支援を得て、ヴラディーミル・モノマーフからチェルニーゴフを奪う。ヴラディーミル・モノマーフはオレーグ・スヴャトスラーヴィチと講和し、ペレヤスラーヴリへ。ポーロヴェツ人に支払い対価を持たないオレーグ・スヴャトスラーヴィチは、ポーロヴェツ人がルーシの地を蹂躙するに任せた。
 なお、おそらくこの時オレーグ・スヴャトスラーヴィチが獲得したのはチェルニーゴフだけではなく、ムーロムも含んでいたものと思われる。つまりは、父がかつて領土としていたセーヴェルスカヤ・ゼムリャームーロム=リャザニを獲得したということなのだろう。

 1095年、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチヴラディーミル・モノマーフが対ポーロヴェツ人遠征。これにはオレーグ・スヴャトスラーヴィチも誘われ、同意したものの、結局出陣はしなかった。

 この頃、兄(?)ダヴィド・スヴャトスラーヴィチスモレンスク公になっている。これが、融和しようとしたヴラディーミル・モノマーフが与えたものなのか、ダヴィド・スヴャトスラーヴィチが自らの力で奪い取ったものなのかは不明。
 1095年、ダヴィド・スヴャトスラーヴィチは一旦ノーヴゴロド公とされたものの、再びスモレンスクへ。スモレンスクを追われたイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチヴラディーミル・モノマーフの次男)がムーロムに侵攻し、オレーグ・スヴャトスラーヴィチの代官を追った。

 1096年、連年にわたるポーロヴェツ人の被害に頭を悩ませたスヴャトポルク・イジャスラーヴィチヴラディーミル・モノマーフが、オレーグ・スヴャトスラーヴィチに内紛をやめて対ポーロヴェツ共同戦線を組むよう提案してきたが、オレーグ・スヴャトスラーヴィチはこれを拒否。スヴャトポルク・イジャスラーヴィチヴラディーミル・モノマーフはチェルニーゴフに侵攻し、オレーグ・スヴャトスラーヴィチはスタロドゥーブに逃亡。スタロドゥーブも攻囲され、1ヶ月以上にわたって持ちこたえたが、最終的には屈服。スヴャトポルク・イジャスラーヴィチヴラディーミル・モノマーフはオレーグ・スヴャトスラーヴィチを釈放し、ダヴィド・スヴャトスラーヴィチとともにキエフに出頭するよう命じた。
 オレーグ・スヴャトスラーヴィチはスモレンスクのダヴィド・スヴャトスラーヴィチのもとに赴いたが、キエフには向かわず、軍を借りてムーロムに侵攻。イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチを破り、さらにイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチを支援したスーズダリとロストーフ(いずれもヴラディーミル・モノマーフの領土)を制圧した。オレーグ・スヴャトスラーヴィチはムーロム=リャザニとロストーフ=スーズダリの地を平定し、各都市に代官を派遣して統治した。
 これに反応したのがヴラディーミル・モノマーフの長男のノーヴゴロド公ムスティスラーフ偉大公で、オレーグ・スヴャトスラーヴィチにムーロムに戻ってスーズダリを返すよう要求。オレーグ・スヴャトスラーヴィチはこれを拒否したばかりか、ノーヴゴロドをも征服しようと末弟ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチを派遣。
 しかしムスティスラーフ偉大公が出陣してくると、オレーグ・スヴャトスラーヴィチはスーズダリを棄ててムーロムに逃亡する。ヤロスラーフを引き連れて再度北上してクリャージマ河畔で決戦を挑むが、ムスティスラーフ偉大公に敗北した。ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチをムーロムに残し、オレーグ・スヴャトスラーヴィチはリャザニに退避した。
 ムスティスラーフ偉大公はさらにムーロムへ、リャザニへ侵攻し、両都市を屈服させた。オレーグ・スヴャトスラーヴィチはリャザニをも棄てて逃亡した。

 しかし連年の内紛を憂慮したムスティスラーフ偉大公は、スヴャトスラーヴィチ兄弟との和解をヴラディーミル・モノマーフに提案。スヴャトポルク・イジャスラーヴィチヴラディーミル・モノマーフにより、1097年、リューベチに諸公会議が招集された。
 オレーグ・スヴャトスラーヴィチも出席したこの会議では、諸公による «ヴォーッチナ(父祖の地)» の世襲が事実上確認され、スヴャトスラーヴィチ兄弟には、かつて父スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチが支配していたセーヴェルスカヤ・ゼムリャームーロム=リャザニトムタラカーニの領有が認められた。

 これでオレーグ・スヴャトスラーヴィチの20年に及ぶ悲願が達成されたということなのだろう。これ以後、オレーグ・スヴャトスラーヴィチは自分の分領でおとなしくしていたらしく、年代記にはほとんど姿を見せなくなった(少なくともかれが争乱のもととなることはなくなった)。
 なお、チェルニーゴフはダヴィド・スヴャトスラーヴィチに譲り(スモレンスクはヴラディーミル・モノマーフのヴォーッチナなので返還された)、オレーグ・スヴャトスラーヴィチ自身はノーヴゴロド=セーヴェルスキーを分領とした。ムーロム=リャザニは末弟ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチに与えられている。なお、トムタラカーニも名目上オレーグ・スヴャトスラーヴィチの分領となったようだが、現実には皇帝アレクシオス・コムネノスのもとで勢力を回復したビザンティン帝国の版図に組み込まれた。

 1097年、リューベチの諸公会議の直後、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチダヴィド・イーゴレヴィチと組んでヴァシリコ・ロスティスラーヴィチを捕らえ、その目を潰すという事件が起こる。内紛を納めて諸公が協調しようとしたリューベチ会議の決議に真っ向から反するこの行為に、ヴラディーミル・モノマーフが激怒。1098年、オレーグ・スヴャトスラーヴィチもダヴィド・スヴャトスラーヴィチとともに軍勢を率いてゴロデーツのヴラディーミル・モノマーフのもとに集結する。
 この圧力にスヴャトポルク・イジャスラーヴィチも屈し、ダヴィド・イーゴレヴィチに対する懲罰戦を約束した。

 1101年にもスヴャトポルク・イジャスラーヴィチヴラディーミル・モノマーフダヴィド・スヴャトスラーヴィチ、さらにはヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチとともに集まり、対ポーロヴェツ人遠征を協議。
 1103年には実際に遠征が行われるが、オレーグ・スヴャトスラーヴィチは病気を口実に同行を拒否している。

 1104年、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチの部下、ヴラディーミル・モノマーフの息子とともにミンスクに遠征。グレーブ・フセスラーヴィチと戦うが、この遠征は失敗に終わった。

 1107年、珍しくスヴャトポルク・イジャスラーヴィチヴラディーミル・モノマーフの対ポーロヴェツ戦に従軍(ただし原初年代記にはオレーグと名だけで父称が記されていないので、別のオレーグのことかもしれない)。
 さらにこの年(ただしおそらくは翌1108年)、ヴラディーミル・モノマーフダヴィド・スヴャトスラーヴィチとともにポーロヴェツ人に遠征。アエパと講和を結び、その娘を息子の妻とする。

 1113年にスヴャトポルク・イジャスラーヴィチが死んだ時には、キエフ大公位を目指すもののムスティスラーフ偉大公に敗北した、とする史料がある一方、あっさりヴラディーミル・モノマーフの大公位継承を認めた、とする史料もある。

 チェルニーゴフの父の傍らに埋葬されている。

 年代記では、ポーロヴェツ人との同盟政策が手厳しく批判されて、完全に悪役扱いされている。
 『イーゴリ軍記』では «ゴリスラーヴィチ» と呼ばれている。これが何に依ったかは不明だし、意味も明確ではないが、ここでもポーロヴェツ人がルーシの地と人々にもたらした災厄の原因をオレーグ・スヴャトスラーヴィチのポーロヴェツ人との同盟政策に帰しているので、あるいはロシア語の «ゴーレ(苦難・悲運)» とかけているのかもしれない。

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