ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチ
Мстислав Святославич
チェルニーゴフ公 князь Черниговский (1219-23)
生:?
没:1223.06.16
父:チェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ (チェルニーゴフ公フセーヴォロド・オーリゴヴィチ)
母:マリーヤ (ポーロツク公ヴァシリコ・スヴャトスラーヴィチ)
結婚:1182
& マルファ
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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マルファと | ||||||
1 | ヴァシリコ | -1223 | ||||
2 | イヴァン | コゼリスク | ||||
3 | アンドレイ | -1263 | チェルニーゴフ | オリガ | ヴォルィニ公ヴァシリコ・ロマーノヴィチ | |
? | ドミートリー |
第10世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。
両親の結婚が1143年のこととされているので、スヴャトスラーヴィチ兄弟の誕生はそれ以降。1198年にスヴャトスラーヴィチ兄弟を差し置いて1150年頃に生まれたイーゴリ・スヴャトスラーヴィチがチェルニーゴフ公になっていることを根拠に、兄弟の結婚と活躍の開始がいずれも1180年前後であることを加味して考えると、1150年代というのが妥当なところだろう。
長幼の順としては、ヴラディーミルが不明だが(長男だろうと想像されるが)、それ以外は一般的にオレーグ、フセーヴォロド、グレーブ、ムスティスラーフの順と考えられているようだ(この順でチェルニーゴフ公になったと考えられているので)。
1174年、父がキエフを占領。しかしキエフを巡る諸公間の争いが続き、キエフもすぐに失われる。ようやく父のキエフ大公位が安定化するのは1177年以降。
父の後任としてチェルニーゴフ公となったのは、叔父のヤロスラーフ・フセヴォローディチ。スヴャトスラーヴィチ兄弟の分領についてはよくわからない。
ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチの年代記への初登場は、1184年(82年?)の結婚に際して。なお、妻マルファは南ロシア平原のテュルク系民族。もっとも、フセーヴォロド大巣公の妻の姉妹だとする説もある(ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチの妻もそう言われているようだが、どちらもそうだったのか? どちらかは間違いか?)。
1184年(83年?)、父に従いポーロヴェツ人遠征。1191年にもポーロヴェツ人に遠征している。
おそらく最年少だったため、父の手元に置かれていたのだろう。その父が1194年に死ぬと、チェルニーゴフに帰還したのではないかと思われる。
スヴャトスラーヴィチ兄弟については、それぞれチェルニーゴフ公となるまでの分領がよくわからない。ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチも同様で、当初はコゼリスク公であったとも言われている(息子がコゼリスク公になっているので)。
この時期は分領どころか、チェルニーゴフ公位すらも少々混乱している。いずれにせよ、グレーブ・スヴャトスラーヴィチが1214・15年にチェルニーゴフ公となっているが、ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチは兄とともに公国の統治に参画したとも言われる。
グレーブ・スヴャトスラーヴィチが死んだ後、正式にチェルニーゴフ公となったようだが、兄の没年も1217年とも1219年とも言われてはっきりしない。
チェルニーゴフ公となった直後、リトアニア人がチェルニーゴフに来襲。各地を略奪される。ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチはこれを追い、略奪された財産や捕虜を奪い返した。
その後のムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチについてはよくわかっていない。次にかれが年代記に登場するのは、ルーシとモンゴルとの最初の接触となったカルカ河畔の戦いにおいてである。
1223年、モンゴル軍が南ロシア平原に出現し、ポーロヴェツ人がルーシ諸公に救援を要請してきた。ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチは、キエフ大公ムスティスラーフ老公、ガーリチ公ムスティスラーフ幸運公とともに、ルーシ軍を率いて出陣。なお、これには長男ヴァシリコも従軍している。
カルカ河畔の戦いでは、渡河して独断専行したムスティスラーフ幸運公率いるガーリチ=ヴォルィニ軍が壊滅。ムスティスラーフ老公率いる主力軍は河畔にとどまって抗戦を続けたが、ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチ率いるチェルニーゴフ軍はポーロヴェツ軍とともにドニェプルへと逃亡した。しかしその途上、ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチと息子のヴァシリコは、追いすがるモンゴル軍に殺された。