リューリク家人名録

聖イーゴリ・オーリゴヴィチ «ブラジェンヌィー»

Св. Игорь Ольгович "Блаженный"

キエフ大公 великий князь Киевский (1146)

生:?
没:1147.09.19−キエフ

父:チェルニーゴフ公オレーグ・スヴャトスラーヴィチキエフ大公スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチ
母:テオファヌ・ムザロニッサ

結婚:?

子:?

第8世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。

 オーリゴヴィチ兄弟の長幼の順はよくわからないが、一般にイーゴリ・オーリゴヴィチは次男と見なされているようだ。長男フセーヴォロド・オーリゴヴィチが、その死に際してキエフ大公位を譲ろうとしたのがイーゴリ・オーリゴヴィチであった。
 しかしそれ以前を見てみると、イーゴリ・オーリゴヴィチが次男とは到底思えない。長男フセーヴォロド・オーリゴヴィチを別格とすれば、オーリゴヴィチ兄弟で最初に自前の領土をもらったはグレーブ・オーリゴヴィチで、1135年のことだった。次がスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチで、翌1136年にノーヴゴロド公となっている。
 そもそもオーリゴヴィチ兄弟は、1115年に父を亡くしてから長い間分領を持たなかったようだ。1127年にフセーヴォロド・オーリゴヴィチチェルニーゴフ公となってからも、弟たちには特段分領が与えられた形跡がない。
 しかし特にイーゴリ・オーリゴヴィチはひどい扱いを受けていて、1139年にフセーヴォロド・オーリゴヴィチキエフ大公となり、1141年にスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチにノーヴゴロド=セーヴェルスキーが与えられても(グレーブ・オーリゴヴィチは1138年に死んでいた)、イーゴリ・オーリゴヴィチには何ら与えられないままだった。
 このような扱いが原因で、イーゴリ・オーリゴヴィチはフセーヴォロド・オーリゴヴィチと対立するようになる。しかしあるいはこれは原因と結果が逆で、もともとこのふたりの兄弟仲が悪く、ためにフセーヴォロド・オーリゴヴィチが弟に分領を与えなかったのかもしれない。
 1142年、イーゴリ・オーリゴヴィチはスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチに加え、ヴラディーミル & イジャスラーフのダヴィドヴィチ兄弟とも語らい、ペレヤスラーヴリに侵攻するなど実力行使に及んだ。この時、フセーヴォロド・オーリゴヴィチが若干の都市(ユーリエフ、ゴロデーツ=オステョールスキー等々)を割譲し、イーゴリ・オーリゴヴィチは初めて自前の分領を得た。

 とはいえ、これでイーゴリ・オーリゴヴィチの不満が解消されたわけではない。1143年にフセーヴォロド・オーリゴヴィチガーリチ公ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチとの戦争を始めるが、その原因のひとつが、ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチがイーゴリ・オーリゴヴィチの与党だったことにある。もっともこの時には、イーゴリ・オーリゴヴィチは両者の間を取り持ったりもしている。

 1145年、フセーヴォロド・オーリゴヴィチが病に陥る。フセーヴォロド・オーリゴヴィチはスヴャトスラーヴィチ一族(オーリゴヴィチ兄弟とダヴィドヴィチ兄弟)と義兄イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチを枕元に呼び、イーゴリ・オーリゴヴィチをキエフ大公の後継者に指名。諸公もそれを承認した。
 1146年になると、キエフの主だった市民を呼び、そこでも同じくイーゴリ・オーリゴヴィチを後継者に指名し、市民もこれを認めた。
 この突然の変心が何によるのかは不明だが、あるいは死に臨んで弟に罪滅ぼしをしておこうとでも思ったのかもしれない。

 1146年、フセーヴォロド・オーリゴヴィチが死去。イーゴリ・オーリゴヴィチは大公位を継ぐが、これにキエフ市民が反発し、ペレヤスラーヴリ公イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチをキエフに招く。イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチはキエフに侵攻。キエフ貴族がこれと手を結ぶ。
 イーゴリ・オーリゴヴィチは弟スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ、甥スヴャトスラーフ・フセヴォローディチとともにイジャスラーフを迎え撃つが、キエフ軍の寝返りで敗北。捕らえられ、ペレヤスラーヴリの修道院に監禁された。
 イーゴリ・オーリゴヴィチのキエフ大公としての在位は、わずかに13日間で終わった。

 投獄中、病に陥ったイーゴリ・オーリゴヴィチは、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの許可を得て修道士に。

 イーゴリ・オーリゴヴィチを救おうと、弟スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチユーリー・ドルゴルーキーと同盟。イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ vs スヴャトスラーフ & ユーリー連合軍との争いが続いた。
 従兄弟であるヴラディーミル & イジャスラーフのダヴィドヴィチ兄弟は、当初イジャスラーフ側に立った。

 1147年、ダヴィドヴィチ兄弟が、スヴャトスラーフ & ユーリー連合側に。これを討伐しようと、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは遠征先からキエフ市民に援軍を要請したが、この時キエフ市民は、先にイーゴリ・オーリゴヴィチを殺そうと、修道院に押し入った。
 こうしてイーゴリ・オーリゴヴィチは、市民たちに虐殺された。
 なお、当時キエフにいた齢14のヴラディーミル・マーチェシチイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの異母弟)がイーゴリ・オーリゴヴィチを母の館に匿おうとするが、市民に押し入られて果たせなかったと伝えられる。

 遺骸は1150年、スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチによってチェルニーゴフに運ばれ、スパソ=プレオブラジェンスキー大聖堂に埋葬された。

 添え名の «ブラジェンヌィー» は「至福の」といった程度の意味だが、特殊な形容詞で、通常は特定の聖者の添え名としてしか使われない。

▲ページのトップにもどる▲

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

ロシア学事始
ロシアの君主
リューリク家
人名録
系図
人名一覧
inserted by FC2 system