グレーブ・スヴャトスラーヴィチ
Глеб Святославич
カーネフ公 князь Каневский (1182-)?
ペレヤスラーヴリ公 князь Переяславский (-1194)?
スタロドゥーブ公 князь Стародубский (1202-04)?
ノーヴゴロド=セーヴェルスキー公 князь Новгород-Северский (1204-14)?
ベールゴロド公 князь Белгородский (1205)
チェルニーゴフ公 князь Черниговский (1214-19)
生:?
没:1219
父:チェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ (チェルニーゴフ公フセーヴォロド・オーリゴヴィチ)
母:マリーヤ (ポーロツク公ヴァシリコ・スヴャトスラーヴィチ)
結婚:1182
& アナスタシーヤ公女 (キエフ大公リューリク・ロスティスラーヴィチ)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
---|---|---|---|---|---|---|
アナスタシーヤ・リューリコヴナと | ||||||
1 | ムスティスラーフ | |||||
2 | ? | ヴラディーミル・フセヴォローディチ | 1192-1227 | スタロドゥーブ公 |
第10世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。
両親の結婚が1143年のこととされているので、スヴャトスラーヴィチ兄弟の誕生はそれ以降。1198年にスヴャトスラーヴィチ兄弟を差し置いて1150年頃に生まれたイーゴリ・スヴャトスラーヴィチがチェルニーゴフ公になっていることを根拠に、兄弟の結婚と活躍の開始がいずれも1180年前後であることを加味して考えると、1150年代というのが妥当なところだろう。
長幼の順としては、ヴラディーミルが不明だが(長男だろうと想像されるが)、それ以外は一般的にオレーグ、フセーヴォロド、グレーブ、ムスティスラーフの順と考えられているようだ(この順でチェルニーゴフ公になったと考えられているので)。
1174年、父がキエフを占領。しかしキエフを巡る諸公間の争いが続き、キエフもすぐに失われる。ようやく父のキエフ大公位が安定化するのは1177年以降。
父の後任としてチェルニーゴフ公となったのは、叔父のヤロスラーフ・フセヴォローディチ。スヴャトスラーヴィチ兄弟の分領についてはよくわからない。
1180年、弟たちと戦うリャザニ公ロマーン・グレーボヴィチの支援に、父により派遣される。
グレーブ・スヴャトスラーヴィチがコロームナに陣取っていると(従士団と一緒になって酔っぱらっていたらしい)、ヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公が現れ、グレーブ・スヴャトスラーヴィチはその捕虜となる。以後、ヴラディーミル系とチェルニーゴフ系のみならず、ポーロツク系、スモレンスク系、ムーロム系、リャザニ系をも巻き込んだ戦争が勃発するが、グレーブ・スヴャトスラーヴィチは終始獄中にいた。
1182年、講和が結ばれ、グレーブ・スヴャトスラーヴィチは釈放される。この時(?)父からキエフ近郊のカーネフをもらったとする歴史書もある。いずれにせよ、この後グレーブ・スヴャトスラーヴィチは、父のもとで活動していたと考えられる。
1187年、ガーリチ公ヤロスラーフ・オスモムィスルが死去。そのふたりの息子の内紛に加え、ボヤーリンの叛乱、ハンガリー王ベーラ3世の介入などで、ガーリチは混乱に陥った。
キエフ大公として事態の収拾に乗り出した父とともに、グレーブ・スヴャトスラーヴィチもガーリチへ。
1189年にはハンガリーに赴き、ベーラ3世と事態の収拾策について協議している。
1190年、父のキエフ不在を衝いてポーロヴェツ人がルーシに侵攻。父の命でグレーブ・スヴャトスラーヴィチがこれを待ち伏せ、撃破した。
1194年、父が死去。この頃かれはペレヤスラーヴリ公となっていて、父の死で追い出されたと考える者もあるようだ。父の死でキエフ大公位にスモレンスク系のリューリク・ロスティスラーヴィチ(妻の父)が就いたことで、グレーブ・スヴャトスラーヴィチはチェルニーゴフに帰還したということだろう。
この辺りチェルニーゴフ系の諸公の分領はよくわからない。グレーブ・スヴャトスラーヴィチも、スタロドゥーブ公になったとする説もあるようだが、兄たちの分領もよくわからないし、それも想像の域を出ないと言っていいだろう。
1205年、覇権を握っていたガーリチ=ヴォルィニ公ロマーン偉大公が死んだことで、南ルーシ情勢は劇的に変化した。リューリク・ロスティスラーヴィチがキエフ大公に返り咲き、チェルニーゴフ公となっていた兄フセーヴォロド真紅公がこれと同盟してガーリチに侵攻。
こうした状況の中で、グレーブ・スヴャトスラーヴィチはキエフ近郊のベールゴロドを与えられている。
なお、この時期のノーヴゴロド=セーヴェルスキー公位については、親族のイーゴレヴィチ兄弟が就いていたとする説が一般的だと思うが、異説もある。ノーヴゴロド=セーヴェルスキー公位もスヴャトスラーヴィチ兄弟が握っていたとする説で、実際スヴャトスラーヴィチ兄弟の方がイーゴレヴィチ兄弟より年長であったから、それも不自然ではない。その場合、フセーヴォロド真紅公がチェルニーゴフ公となった後(1204年?)、グレーブ・スヴャトスラーヴィチがノーヴゴロド=セーヴェルスキー公になったとされる。
1210年、フセーヴォロド真紅公、ヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公、キエフ大公リューリク・ロスティスラーヴィチ(スモレンスク系)の3者間で和解が成立。フセーヴォロド真紅公がキエフ大公となり、リューリク・ロスティスラーヴィチがチェルニーゴフ公となった。
スヴャトスラーヴィチ以外からチェルニーゴフ公が出たのは、1094年以来初めて(で最後)のことだったが、これにグレーブ・スヴャトスラーヴィチがどう反応したかは不明。
1214年、リューリク・ロスティスラーヴィチが死去。これによりグレーブ・スヴャトスラーヴィチがチェルニーゴフ公となった(ただしグレーブ・スヴャトスラーヴィチがチェルニーゴフ公となったのは、兄の死後だとする史料もある)。
1215年、フセーヴォロド真紅公がムスティスラーフ幸運公(リューリクの甥)に敗北し、やがて死去。ムスティスラーフ幸運公はチェルニーゴフも攻囲し、グレーブ・スヴャトスラーヴィチは和解を余儀なくされた。グレーブ・スヴャトスラーヴィチはキエフにおけるスモレンスク系一族の覇権を認め、ヴィーシュゴロドをムスティスラーフ老公(ムスティスラーフ幸運公の従兄弟)に譲渡した。
チェルニーゴフ公としては、グレーブ・スヴャトスラーヴィチは弟ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチと共同統治したらしい。が、これといって活躍したようでもない。没年すら、1217年説もあってよくわからない。
なお、1198年以降のノーヴゴロド=セーヴェルスキー公位についてはよくわからないが、特にこの時期はノーヴゴロド=セーヴェルスキー公位に就いていたらしき人物が見当たらない。あるいはムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチがノーヴゴロド=セーヴェルスキー公だったのか、それともグレーブ・スヴャトスラーヴィチが支配し続けていたのか(かつてノーヴゴロド=セーヴェルスキー公だったとして)。