リューリク家人名録

アンドレイ・フセヴォローディチ

Андрей Всеволодич

チェルニーゴフ公 князь Черниговский (1261-63)

生:?
没:?

父:チェルニーゴフ公フセーヴォロド・ヤロポールチチノーヴゴロド公ヤロポルク・ヤロスラーヴィチ
母:?

結婚:1259
  & オリガ公女 (ヴラディーミル=ヴォルィンスキー公ヴァシリコ・ロマーノヴィチ

子:?

第12世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。

 父親はフセーヴォロド・スヴャトスラーヴィチ真紅公だとする説、ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチだとする説もある。どちらの説でも、世代がひとつずれることになる(第11世代)。
 これらを共存させようと試みる者もあるが、それによれば、フセーヴォロド・ヤロポールチチの子アンドレイ・フセヴォローディチはスノフスク公ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチの子アンドレイ・ムスティスラーヴィチはコゼリスク公、そしてフセーヴォロド真紅公の子アンドレイ・フセヴォローディチがチェルニーゴフ公となる。

 父親がフセーヴォロド・ヤロポールチチだった場合はわからないが、スヴャトスラーヴィチ兄弟のどちらかであった場合、どちらも結婚が1180年頃のことなので、アンドレイの生年も1180年代と見ていいだろう(あるいは遅くて1190年代に入ってからか)。

 1246年、ミハイール・フセヴォローディチが死んだ。かれの跡を継いでチェルニーゴフ公となったのが誰か、大雑把に3説ある。遺児ロマーン老公フセーヴォロド・ヤロポールチチ、そしてアンドレイである。
 ここでアンドレイの父親が誰かが問題となってくる。もしフセーヴォロド・ヤロポールチチだとすれば、そしてミハイール・フセヴォローディチの跡をアンドレイが継いだとすれば、どう考えてもこの時点でフセーヴォロド・ヤロポールチチがすでに死んでいたということになる。フセーヴォロド・ヤロポールチチがまだ生きていたとすれば、かれがまずチェルニーゴフ公となり、その死後にアンドレイが公位を継いだということになろう。
 もしフセーヴォロド真紅公だとすれば、つまりアンドレイはミハイール・フセヴォローディチの弟ということになる。当時の慣習では、叔父を差し置いて甥が跡を継ぐというのはよほどの事情がない限りは考えづらい。つまりミハイール・フセヴォローディチの跡を継いだのはアンドレイだろうということになる。

 1261年頃、オリガ・ヴァシリコヴナと結婚。父親がスヴャトスラーヴィチ兄弟のどちらかだった場合、あまりに晩婚すぎるのではないだろうか。
 ちなみに、最低でもこの時にはアンドレイがチェルニーゴフ公であったと考えられる。

 1263年、リトアニアにより攻略され、アンドレイはチェルニーゴフを追われた。

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