ユーリー・ダヴィドヴィチ
Юрий Давыдович
ムーロム公 князь Муромский (1228-37)
生:?
没:1237
父:ムーロム公ダヴィド・ユーリエヴィチ (ムーロム公ユーリー・ヴラディーミロヴィチ)
母:フェヴローニヤ
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
1 | ヤロスラーフ | ムーロム |
第12世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。
厳密に言うと、かれについては何もわかっていない。
1232年、ヴラディーミル大公ユーリー・フセヴォローディチが、息子のフセーヴォロド・ユーリエヴィチをモルドヴァー人遠征に派遣しているが、この時ムーロム系・リャザニ系諸公も遠征に従軍している。特に名は挙げられていないが、記録に残る限りでは、この時期ムーロム系諸公と言えばユーリー・ダヴィドヴィチだけだったので、ユーリー・ダヴィドヴィチ自身がモルドヴァー人遠征に従軍していたのかもしれない。
年代記には、1237年のモンゴル軍の襲来で命を落としたとして、リャザニ公イングヴァーリ・イーゴレヴィチの息子たちの名がいくつか挙げられている。その中に、«ムーロムのダヴィド» という名がある。
多くの学者が、これはムーロム公ダヴィト・ユーリエヴィチのことで、父と息子とを取り違えたためこう記されているが、実際には息子のユーリー・ダヴィドヴィチがモンゴル軍との戦いで、リャザニ郊外で戦死したのだろうと考えている。