ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチ
Ярослав Святославич
ムーロム公 князь Муромский (1096-1129)
チェルニーゴフ公 князь Черниговский (1123-27)
生:?
没:1129
父:キエフ大公スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチ (キエフ大公ヤロスラーフ賢公)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
---|---|---|---|---|---|---|
母親不詳 | ||||||
1 | ユーリー | -1143 | ムーロム | |||
2 | スヴャトスラーフ | -1145 | ムーロム | |||
3 | ロスティスラーフ | -1153 | リャザニ | |||
? | ダヴィド | -1147 | ||||
? | イーゴリ | -1147 |
第7世代。スヴャトスラーヴィチ。洗礼名パンクラーティー。
ムーロム=リャザニ系スヴャトスラーヴィチの始祖。
一般的にスヴャトスラーヴィチ5兄弟の末弟とされており、史料によっては生年を1070年代とするものもある(父の死は1076年)。年代記に初登場するのが1096年の項で、すでに1070年代(かれが生まれた頃?)から登場している兄たち(長兄とされるグレーブ・スヴャトスラーヴィチに至っては1064年)と比べて、あまりに遅い。かなり年の離れた弟だったのか。
これに関連して、ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチはスヴャトスラーヴィチ兄弟の異母弟だった、とする説がある。それによれば母親は北ドイツのシュターデ伯の娘オダ。父の晩年に結婚したと考えられる。ドイツ側の年代記によると、夫の死後故郷に戻ったオダは、ヴァルテスラフと呼ばれる息子を連れていた。のちにヴァルテスラフはルーシに戻り、父の跡を継いだという。もしオダの夫がリューリコヴィチであるとするならば、それはスヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチのことであろう、とする説が近年有力になってきているようだ。そしてその場合、このヴァルテスラフに相当するのがヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチだということになる。
とすれば、ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチは父の死後ドイツで幼少期を過ごしたことになる。
いずれにせよ、1096年まで、ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチがどこでどうしていたかは不明。
1096年、兄のオレーグ・スヴャトスラーヴィチがムーロムを占領。さらにロストーフ=スーズダリを制圧した。これに対してヴラディーミル・モノマーフの息子のノーヴゴロド公ムスティスラーフ偉大公がロストーフ=スーズダリを返還するよう要求すると、オレーグ・スヴャトスラーヴィチはこれを拒否。あまつさえノーヴゴロドをも獲得しようとヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチを派遣した。これが『原初年代記』におけるヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチの初登場である。
ムスティスラーフ偉大公はノーヴゴロド軍を率いてロストーフ=スーズダリに侵攻。ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチは兄とともにムーロムに逃亡した。やがて再度北上してクリャージマ河畔にて戦うが、ムスティスラーフ偉大公に敗北。ムーロムに逃げ帰る。なお、オレーグ・スヴャトスラーヴィチはムーロムにヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチを残して、さらにリャザニへと退避した。
ムスティスラーフ偉大公はさらにムーロムに侵攻。ムーロム市民はこれに屈服したというが、ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチがどうしたかは不明。
1097年、リューベチで諸公会議が開催される。『原初年代記』は出席者としてヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチの名を挙げていないが、あるいはまだ若年だったためにその権利は兄たちが代弁した、というところなのだろうか。
この会議でスヴャトスラーヴィチ兄弟には «ヴォーッチナ(父祖伝来の地)» としてセーヴェルスカヤ・ゼムリャーとムーロム=リャザニの地が認められた。ダヴィド・スヴャトスラーヴィチがチェルニーゴフ公に、オレーグ・スヴャトスラーヴィチがノーヴゴロト=セーヴェルスキー公になってセーヴェルスカヤ・ゼムリャーを分け合い、ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチはムーロム=リャザニを獲得した。
ムーロム=リャザニの地は、兄たちの本領セーヴェルスカヤ・ゼムリャーの中心部との間にヴャーティチ人の森林地帯をはさんでおり(ここはモンゴル襲来後兄たちの末裔が難を逃れて «上流諸公領» を形成した地域)、しかもセーヴェルスカヤ・ゼムリャーがポーロヴェツ人との最前線に位置したのに対して、ムーロム=リャザニの最大の脅威はヴォルガ=ブルガールを筆頭にしたヴォルガ中流域の諸民族であったこともあり、やがてセーヴェルスカヤ・ゼムリャーとムーロム=リャザニとのつながりは徐々に薄れていく。
『原初年代記』を中心とした諸年代記がこの頃はキエフ中心の視点で書かれているため、あまりキエフや南ルーシにかかわらなかったムーロム=リャザニ(ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチ)についての記述はほとんど存在しない。
1097年と1100年の諸公会議には顔を見せていないヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチだが、1101年に開催された会議にはスヴャトポルク・イジャスラーヴィチ、ヴラディーミル・モノマーフ、ダヴィド・スヴャトスラーヴィチ、オレーグ・スヴャトスラーヴィチとともに集まり、対ポーロヴェツ人遠征を協議。
1103年、モルドヴァー人に遠征。
1123年、兄のダヴィド・スヴャトスラーヴィチが死去。いまひとりの兄オレーグ・スヴャトスラーヴィチもすでに亡く、スヴャトスラーヴィチ兄弟最後の生き残りとなったヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチがセーヴェルスカヤ・ゼムリャーを継ぎ、スヴャトスラーヴィチ一族の全 «ヴォーッチナ» を領有することになった。
1127年、甥のフセーヴォロド・オーリゴヴィチにセーヴェルスカヤ・ゼムリャーを奪われる。キエフ大公となっていたムスティスラーフ偉大公はフセーヴォロド・オーリゴヴィチに、セーヴェルスカヤ・ゼムリャーをヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチに返還するよう要求。しかしフセーヴォロト・オーリゴヴィチはキエフのボヤーリンたちを買収し、ムスティスラーフ偉大公も強硬策を採るに採られず、結局うやむやになってしまった。
ムーロムに埋葬されている。
ムーロムをキリスト教化したと伝えられる伝説的な «コンスタンティーン公» と同一視されることがある。このため聖者扱いされることもある。コンスタンティーンの長男ミハイールは幼少期に異教徒によって殺され、コンスタンティーンの跡は次男フョードルが継いだとされている。そのためユーリー・ヤロスラーヴィチもこのフョードル・コンスタンティーノヴィチと同一視されることがある。