ヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチ
Владимир Святославич
ムーロム公 князь Муромский (1155-62)
生:?
没:1162
父:ムーロム公スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチ (ムーロム公ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチ)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
1 | ユーリー | -1176 | ムーロム |
第9世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。
生年は不明。まったくの想像で言えば、1120年代。もっとも、根拠と言って、祖父が1070年頃の誕生と考えられることぐらい。
ダヴィドとイーゴリという兄弟がいたらしいが、誰が長男で誰が次男かもよくわからない(ヴラディーミルを末男とする文献がある)。
1145年、父の死で、叔父リャザニ公ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチがムーロム公となる。
この時期のムーロム=リャザニについてはわからないことが多い。と言うよりも、そもそもムーロム=リャザニそれ自体は、年代記作者の関心の対象外だった。あくまでもキエフやその他の有力諸公とのかかわりに際して名前が言及される程度。
このため、父の死後ムーロム=リャザニがどうなったかも想像の範囲内のことでしかないが、おそらくロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチがすべての領土を確保したのではないかと思われる。一部ではムーロムに移ったロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチが、息子のグレーブにリャザニを統治させたともされる。どちらにせよ、ヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチにはこれといった分領が与えられなかった可能性が高い。
1146年、キエフ大公フセーヴォロド・オーリゴヴィチが死去。キエフ大公を巡る激しい争いが勃発するが、そのふたりの主役、ヴラディーミル=ヴォルィンスキー公イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチとその叔父ロストーフ=スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキーのうち、ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチが前者を支持したのに対して、スヴャトスラーヴィチ兄弟は後者(あるいはその同盟者のノーヴゴロド=セーヴェルスキー公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ)を支持したとする文献がある。
そのスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチが1147年にユーリー・ドルゴルーキーに会いにモスクワに赴いた際には、ヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチもこれに同行した。
この年、ヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチはスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチとともにチェルニーゴフ領を攻略しているが、その間にユーリー・ドルゴルーキーはロスティスラーフとグレーブの父子をリャザニから追った。よくわからないが、ヴラディーミル、ダヴィド、イーゴリのスヴャトスラーヴィチ3兄弟がムーロム=リャザニを支配したらしい。とはいえダヴィドはこの年1147年に、イーゴリもこのすぐ後に死んだらしく、ヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチがムーロム=リャザニの全体を支配することになったのだろうか。
だとしても、その期間は長くはなかった。ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチは1150年頃には立場を替え、ユーリー・ドルゴルーキー派に転向。その結果、1151年(52年?)にはムーロム公に返り咲いたらしい(その子グレーブは依然ポーロヴェツ人のもとに)。
もっとも、これでロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチがムーロム=リャザニ全土を領有し、ヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチが分領を失ったのか、それともロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチがムーロムを、ヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチがリャザニをそれぞれ支配したのか、その辺りははっきりしない。
いずれにせよ、1153年・55年(これもはっきりしない)、ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチが死去。グレーブ・ロスティスラーヴィチが相変わらずポーロヴェツ人のもとにとどまったままだったので、ヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチがムーロム=リャザニ全体の唯一の支配者となった。
ただし、グレーブ・ロスティスラーヴィチは1159年にリャザニに帰還したらしい。その後もヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチがムーロム=リャザニの一括支配を続けたのか、グレーブ・ロスティスラーヴィチにリャザニを分領として与えたのか。