スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチ
Святослав Ярославич
リャザニ公 князь Рязанский (1129-43)
ムーロム公 князь Муромский (1143-45)
生:?
没:1145
父:ムーロム公ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチ (キエフ大公スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチ)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
1 | ヴラディーミル | -1161 | ムーロム | |||
? | ダヴィド | -1147 | リャザニ | |||
? | イーゴリ | リャザニ |
第8世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。
ヤロスラーヴィチ3兄弟については、生年も長幼の順もはっきりしない。
父はスヴャトスラーヴィチ5兄弟の末弟であり、その生年は1070年ともされる。結婚した年も(相手も)不明なのであとは想像でしかないが、ヤロスラーヴィチ兄弟の生年はおおよそ1090年代から1100年代と見ていいのではないだろうか。
長幼の順についていえば、一般的にはユーリー、スヴャトスラーフ、ロスティスラーフの順とされているようだ。
父は1123年にセーヴェルスカヤ・ゼムリャーを相続し、ムーロム=リャザニと併せてスヴャトスラーヴィチ一族のヴォーッチナ全土を支配することになった。しかし1127年にはセーヴェルスカヤ・ゼムリャーを失う。このため、1129年に父が死んだ時、ヤロスラーヴィチ兄弟が相続したのはムーロム=リャザニだけである。
1129年の父の死で、ムーロム=リャザニはヤロスラーヴィチ兄弟によって分割されたと考えられている。一般的にユーリーがムーロムを、スヴャトスラーフがリャザニを継承したとされる。しかしロスティスラーフについては、別にプロンスクを与えられたとする説と、スヴャトスラーフとともにリャザニを共同統治したとする説とがある。
1143年、ユーリー・ヤロスラーヴィチが死去。スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチがムーロムを継いだ。
もっとも、リャザニについて、ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチに譲ったか、それとも従前通り共同統治を続けたか、両説がある。これについては、おそらくすでにこの頃からムーロムと並んで(あるいはムーロム以上に)リャザニが重要性を増してきたことが原因として考えられよう。あるいは、ムーロムを継いでも、スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチは相変わらずリャザニに住み続けたのかもしれない。
ユーリー・ヤロスラーヴィチと同様に、公としての事績も、私生活の情報(妻が誰か)も、よくわかっていない。