ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチ
Ростислав Ярославич
プロンスク公 князь Пронский (1129-43)?
リャザニ公 князь Рязанский (1143-45)
ムーロム公 князь Муромский (1145-55)
生:?
没:1155頃
父:ムーロム公ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチ (キエフ大公スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチ)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
---|---|---|---|---|---|---|
母親不詳 | ||||||
1 | アンドレイ | エレーツ | ||||
2 | グレーブ | -1177 | リャザニ | ? | -1179 | ペレヤスラーヴリ公ロスティスラーフ・ユーリエヴィチ |
? | ユーリー | -1176 | ムーロム |
第8世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。
ヤロスラーヴィチ3兄弟については、生年も長幼の順もはっきりしない。
父はスヴャトスラーヴィチ5兄弟の末弟であり、その生年は1070年ともされる。結婚した年も(相手も)不明なのであとは想像でしかないが、ヤロスラーヴィチ兄弟の生年はおおよそ1090年代から1100年代と見ていいのではないだろうか。
長幼の順についていえば、一般的にはユーリー、スヴャトスラーフ、ロスティスラーフの順とされているようだ。
1129年、父が死去。遺領は分割され、長兄ユーリーがムーロムを、次兄スヴャトスラーフがリャザニを継いだ。
ここまでは通説として定着しているようだが、さてロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチが分領を与えられたのか、与えられたとしたらどこかが不明。スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチとともにリャザニを共同支配したとする文献もあれば、プロンスクを与えられたとする文献もある。あるいはまだ若年だったのか。
1143年、長兄ユーリー・ヤロスラーヴィチが死去。ユーリー・ヤロスラーヴィチには子がなく、遺領は次兄スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチが継いだ。
しかしここでもロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチの地位については複数の説があり、従前通りスヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチとともにリャザニを支配したとするもの、スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチがムーロムに移ったのでロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチがリャザニ公となったとするもの、である。
1145年、次兄スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチが死去。ヤロスラーヴィチ兄弟で生き残ったのはロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチだけとなった。スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチには遺児がいたにもかかわらず、ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチが父の遺領のすべてを支配した。
とはいえ、次の情報からして、ムーロムではなくリャザニに居住を続けたようだ。その一方で、ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチはムーロムに移り、息子グレーブをリャザニ公として残した、とする文献もある。
1146年、キエフ大公フセーヴォロド・オーリゴヴィチが死去。キエフ大公位を巡る激しい争いが勃発するが、そのふたりの主役、ロストーフ=スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキーとその甥ヴラディーミル=ヴォルィンスキー公イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチのうち、ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチは後者を支持。
このため同年(翌年?)、ユーリー・ドルゴルーキーの子ロスティスラーフ・ユーリエヴィチとアンドレイ・ボゴリューブスキーの兄弟にリャザニを攻略され、リャザニから追われる。ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチはポーロヴェツ人のもとに逃亡した。
ムーロム=リャザニ(とその諸公)については、初代ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチから14世紀、16世紀のその滅亡に至るまで、非常に史料が乏しい。ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチについても例外ではなく、リャザニを追われた後いつ、どのような事情で復帰したのか、そしてその間ムーロム=リャザニは誰が支配していたのか、など一切不明。ただし一説には、兄スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチの遺児たちが公となったともされる。
その後、1152年頃には立場を替え、ユーリー・ドルゴルーキーを支援してイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチと戦う。
そのご褒美として、1152年にムーロムをもらった、とする文献がある。とするとそれまでムーロムはユーリー・ドルゴルーキーに奪われたままだったということか。
1154年、ユーリー・ドルゴルーキーにリャザニから追われ、アンドレイ・ボゴリューブスキーがリャザニ公となる(ムーロムとする文献もある)。しかしロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチはポーロヴェツ人の支援を得てこれを奪回した。
しかしこの記述には若干の不審がある。ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチはすでに数年前からユーリー・ドルゴルーキーの同盟者であり、その遠征にも従軍している。なぜいまさらユーリー・ドルゴルーキーがその同盟者を追わなければならないのだろうか。
ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチの没年ははっきりしないが、一般的に1153年か1155年とされているようだ。もし1153年であったとしたならば、ユーリー・ドルゴルーキーによる追放は死後の話となってしまう。
この記事は、むしろ1146年の出来事を述べているのではないだろうか(登場人物がそっくり同じだし)。