リューリク家人名録

ミハイール・フセヴォローディチ

Михаил Всеволодич

プロンスク公 князь Пронский (1207、1208-17)

生:?
没:1217.07.20

父:プロンスク公フセーヴォロド・グレーボヴィチリャザニ公グレーブ・ロスティスラーヴィチ
母:?

結婚:
  & ヴェーラ公女 (チェルニーゴフ公フセーヴォロド真紅公

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1フセーヴォロド-1237プロンスク

第11世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。
 年代記ではしばしば «キール・ミハイール Кир Михаил» と呼ばれている。この «キール» が一体何なのかは厳密には不明。ロシアでは名(ファースト・ネーム)をふたつ持つことはないし、キールもミハイールもキリスト教徒としての名だから、どちらかがリューリコヴィチ伝統の異教的な名ということもない。

 ミハイール・フセヴォローディチの生年は不明。しかし父の生年が1160年代と想像されること(あくまで想像でしかないが)、妻ヴェーラ・フセーヴォロドヴナの生年が1180年代と考えられること(政略結婚だとすると根拠としては薄弱だが)等から、ミハイール・フセヴォローディチの生年も1180年頃と見ていいのではないだろうか。

 1186年の時点で、父の世代は、上の3人がリャザニを、下のふたり、父と叔父スヴャトスラーフ・グレーボヴィチのふたりがプロンスクを、それぞれ共同で支配していた。
 1186年に内紛が勃発し、その結果1188年にヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公によってスヴャトスラーフ・グレーボヴィチはプロンスクを追われ、父がプロンスクの単独の支配者となった。
 スヴャトスラーフ・グレーボヴィチがその後どうしていたかはよくわからないが、1207年の時点では平和裏に暮らしていたようだ。あるいは父と和解して、プロンスクを共有していたのかもしれない。
 その父がいつ死んだかも不明だが、1207年かそれ以前であることは間違いない。

 1207年、リャザニに «宗主権» を行使していたヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公は、チェルニーゴフ侵攻を計画し、リャザニ諸公にも従軍を命じた。この時、グレーブオレーグのヴラディーミロヴィチ兄弟が、フセーヴォロド大巣公に、リャザニ諸公がフセーヴォロド大巣公を裏切ってチェルニーゴフ側と同盟したと訴え出た。
 フセーヴォロド大巣公はリャザニ諸公をモスクワに召喚し、出頭したロマーン & スヴャトスラーフのグレーボヴィチ兄弟、イングヴァーリ & ユーリーのイーゴレヴィチ兄弟、スヴャトスラーフのふたりの息子を拘束。ヴラディーミルに監禁した。さらにフセーヴォロド大巣公はプロンスクに侵攻。ミハイール・フセヴォローディチはチェルニーゴフに逃亡した(義父のもとに逃げたということか、それともこの時結婚したのか)。
 その後プロンスク市民はイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチを担ぎあげて徹底抗戦を続けたが、プロンスクもリャザニも屈服し、イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチもチェルニーゴフに逃亡した。

 1208年、ミハイール・フセヴォローディチはイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチとともにモスクワ近郊を攻略。しかしユーリー・フセヴォローディチに敗北する。
 さらに同年、ミハイール・フセヴォローディチはグレーブ & オレーグ & イジャスラーフのヴラディーミロヴィチ兄弟とともにムーロムに侵攻し、フセーヴォロド大巣公によりプロンスクを与えられていたムーロム公ダヴィド・ユーリエヴィチと戦う。ダヴィド・ユーリエヴィチはムーロムに逃げ帰り、ミハイール・フセヴォローディチがプロンスクを奪還した。

 1217年、グレーブ・ヴラディーミロヴィチにより、ほかの5人の諸公とともに殺された。

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