コンスタンティーン・ヴラディーミロヴィチ
Константин Владимирович
生:?
没:?
父:リャザニ公ヴラディーミル・グレーボヴィチ (リャザニ公グレーブ・ロスティスラーヴィチ)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
1 | エヴスターフィー | -1264 |
第11世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。
ヴラディーミロヴィチ兄弟の生年、長幼の順は不明だが、ほかのヴラディーミロヴィチ兄弟がそれぞれに活躍していた1207年にはコンスタンティーン・ヴラディーミロヴィチの名前が出てこない。あるいは末弟で、この時点ではまだ幼かったのだろうか。
1217年、長兄グレーブ・ヴラディーミロヴィチの陰謀に参画。リャザニ諸公を宴会を口実に招き、当時存命中の10人のうち、集まった6人を皆殺しにした。その中には実の兄弟のイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチもいた。
リャザニ奪取を狙った行為だったはずだが、グレーブ・ヴラディーミロヴィチとコンスタンティーン・ヴラディーミロヴィチはそのままポーロヴェツ人のもとに逃亡する。1218年にはポーロヴェツ人を率いてリャザニに来襲するが、皆殺しを生き延びたイーゴレヴィチ兄弟に撃退された。
その後のコンスタンティーン・ヴラディーミロヴィチの消息は不明。兄の死後、そのままポーロヴェツ人のもとにとどまったか、あるいはチェルニーゴフでもふらついていたか(チェルニーゴフ公一族はリャザニ公一族とは比較的良好な関係にあった)。
1205年以来、ガーリチでは諸勢力が覇権を争っていたが、その中心にいたのはダニイール・ロマーノヴィチだった。1228年以来、これに積極的にかかわっていったのが、チェルニーゴフ公ミハイール・フセヴォローディチだった。
1240年、モンゴルの襲来で、一旦南ルーシに権力の空白が生じる。この隙をついて、ミハイール・フセヴォローディチの息子ロスティスラーフがガーリチに侵攻。この侵攻軍の中に、コンスタンティーン・ヴラディーミロヴィチの名前が見える。
もっとも、コンスタンティーン・ヴラディーミロヴィチ自身は主役ではなく、あくまでもロスティスラーフ・ミハイロヴィチの助っ人。ロスティスラーフ・ミハイロヴィチがガーリチから追われると同時に、コンスタンティーン・ヴラディーミロヴィチも、今度こそ本当に歴史から姿を消した。
その後の消息は一切不明だが、息子のエヴスターフィーはリトアニア大公ミンダウガスに仕えていたと言われる。ガーリチ奪取も成らず、コンスタンティーン・ヴラディーミロヴィチはリトアニアに亡命したのかもしれない。