リューリク家人名録

イズャスラーフ・ヴラディーミロヴィチ

Изяслав Владимирович

生:?
没:1217.07.20

父:リャザニ公ヴラディーミル・グレーボヴィチリャザニ公グレーブ・ロスティスラーヴィチ
母:?

結婚:?

子:?

第11世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。

 1207年、ふたりの兄グレーブオレーグが、当時リャザニに «宗主権» を及ぼしていたヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公に、リャザニ諸公の «裏切り» を通報。フセーヴォロド大巣公はモスクワに召喚したリャザニ諸公を拘束すると、リャザニに侵攻した。
 これに対し、プロンスク公ミハイール・フセヴォローディチは逃亡。しかしプロンスク市民はイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチを担ぎ上げ、徹底抗戦を続ける。頼みはリャザニ軍だった。
 リャザニからはロマーン・イーゴレヴィチが救援に駆け付けるが、ヴラディーミル軍に敗北。プロンスク市民の士気も衰え、イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチはチェルニーゴフに逃亡。プロンスクが、続いてリャザニが降伏した。リャザニはフセーヴォロド大巣公により平定された。

 その後のフセーヴォロド大巣公の措置については、史料は少々混乱している。
 その間、イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチはミハイール・フセヴォローディチと合流。1208年にはモスクワ近郊を攻略したが、フセーヴォロド大巣公の子ユーリーにより撃退された。

 しかしグレーブオレーグのふたりの兄も、おそらく1208年中にはフセーヴォロド大巣公に反旗を翻したらしい。同年、3兄弟は、ミハイール・フセヴォローディチとともにプロンスクに侵攻。フセーヴォロド大巣公に公としてプロンスクを委ねられたムーロム公ダヴィド・ユーリエヴィチを追い、プロンスクを奪還した。

 1217年、兄グレーブ・ヴラディーミロヴィチがリャザニ諸公を宴会に招く。この時出席したのは、リャザニ公ロマーン・イーゴレヴィチプロンスク公ミハイール・フセヴォローディチロスティスラーフ & スヴャトスラーフ、グレーブ(父不詳。ロマーンイーゴリ?)、さらにイジャスラーフとコンスタンティーンのヴラディーミロヴィチ兄弟。全員が従兄弟同士だった。
 しかしこの宴会はグレーブコンスタンティーンの陰謀で、ふたりはポーロヴェツ人の力を借りて、集まった6人の諸公を皆殺しにした。イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチも、何も知らぬまま兄たちの凶刃に倒れた。

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