イヴァン・ヤロスラーヴィチ
Иван Ярославич
プロンスク公 князь Пронский (1294-1308)
リャザニ大公 великий князь Рязанский (1308-27)
生:?
没:1327
父:リャザニ大公ヤロスラーフ・ロマーノヴィチ (リャザニ公ロマーン・オーリゴヴィチ)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
1 | イヴァン | -1343 | リャザニ | |||
? | オリガ | スタニスラーフ・イヴァーノヴィチ | キエフ公 |
第15世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。
リャザニ系諸公についてはこれまでも情報量が少なかったが、1301年に叔父コンスタンティーン・ロマーノヴィチがモスクワの捕虜となってからは、一段と情報量が減る。その結果、公位にあったのが誰かすらはっきりしなくなる。
当時リャザニにはヤロスラーヴィチ兄弟(2兄弟か3兄弟か、はたまた4兄弟かもはっきりしない)とヴァシーリー・コンスタンティーノヴィチがいた。いずれもおそらく1290年代の生まれではないかと想像される。
このうちイヴァン・ヤロスラーヴィチは、すでに父の生前(1294年)か父の死に際して(1299年)、プロンスク公になっていたのではないかと考えられる。そして1301年の時点で、リャザニはヴァシーリー・コンスタンティーノヴィチが相続したと思われる。
しかしヴァシーリー・コンスタンティーノヴィチは1308年にサライで処刑された。これによりイヴァン・ヤロスラーヴィチがリャザニ大公位を継いだ。
1320年、モスクワ公ユーリー・ダニイーロヴィチがリャザニに侵攻。
一説にはトヴェーリ遠征の際タタール人に殺されたと言い、別の説ではサライで処刑されたと言う。