リューリク家人名録

グレーブ・ロスティスラーヴィチ

Глеб Ростиславич

リャザニ公 князь Рязанский (1145-78)

生:?
没:1178.06.30−ヴラディーミル

父:リャザニ公ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチムーロム公ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチ
母:?

結婚:
  & エフフロシーニヤ? -1179 (ペレヤスラーヴリ公ロスティスラーフ・ユーリエヴィチ

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
ロスティスラーフの娘と
1ロマーン-1215リャザニチェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ
2イーゴリ-1195リャザニアグラフェーナ-1237スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ
3ヴラディーミルリャザニ
4フセーヴォロド-1207プロンスク
5スヴャトスラーフプロンスク
6ヤロスラーフフセスラーヴァキエフ大公リューリク・ロスティスラーヴィチ
7ムスティスラーフ勇敢公-1180スモレンスク公

第9世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。

 生年は不明。まったくの想像で言えば、1120年代。根拠と言って、祖父の誕生が1070年代と思われることぐらい。

 1145年、伯父のムーロム公スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチが死去。ムーロムを継いだ父により、リャザニを委ねられたと考えられる。

 この頃から活発化した、キエフ大公位を巡るユーリー・ドルゴルーキーイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの争いで、父は後者を支持した。このため1146年(47年?)、ユーリー・ドルゴルーキーに派遣されたその息子ロスティスラーフ & アンドレイ兄弟により、グレーブ・ロスティスラーヴィチは父ともども領土から追われる。
 グレーブ・ロスティスラーヴィチはポーロヴェツ人のもとに身を寄せる。

 グレーブと父が不在の間、おそらくムーロム=リャザニは従兄弟のヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチが支配していたものと思われる。
 父は1151年頃に立場を替え、ムーロム公に返り咲いたらしい。しかし父とヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチとの関係、ふたりがムーロム=リャザニをどう分割統治していたのか(あるいは分割統治していなかったのか)など、よくわからない。グレーブ・ロスティスラーヴィチは父が帰還した後もポーロヴェツ人のもとにとどまり続けたようだが、あるいはひとつにはその辺りの複雑な事情が働いていたのかもしれない。それとも、ひょっとしたら生年が1130年代(の後半)とかで、この頃はまだ幼かったということなのかもしれない。
 その父も1153年か55年頃に死去。おそらくヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチが再びムーロム=リャザニの単独の支配者となったのだろう。

 1159年、グレーブ・ロスティスラーヴィチはリャザニに帰還した。しかしここでもヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチとの関係はわからない。ヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチが死んで初めてグレーブ・ロスティスラーヴィチはリャザニ公位を回復したとする文献もある。
 いずれにせよ、1161年(62年?)にヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチが死去。ムーロムはその子ユーリー(グレーブの弟とする説も一部にはある)が継いだ。遅くともこの時には、グレーブ・ロスティスラーヴィチもリャザニ公位を回復した。
 グレーブ・ロスティスラーヴィチも、以後はロストーフ=スーズダリ諸公に接近し、かつて自分をリャザニから追ったロスティスラーフ・ユーリエヴィチの娘と結婚した。

 その後10年以上、消息不明。ただし1169年にヴラディーミル公アンドレイ・ボゴリューブスキーロスティスラーフ・ユーリエヴィチの弟)がノーヴゴロドに大軍を派遣した際、これにリャザニ軍が従軍している。グレーブ・ロスティスラーヴィチが派遣したのか?

 1175年、アンドレイ・ボゴリューブスキーの死後、義兄ムスティスラーフ無眼公 & ヤロポルクのロスティスラーヴィチ兄弟によるヴラディーミル公位獲得を支援。
 1176年、かれらがその叔父ミハルコ・ユーリエヴィチにヴラディーミルを追われると、グレーブ・ロスティスラーヴィチはミハルコ・ユーリエヴィチと和解。
 しかし1176年にミハルコ・ユーリエヴィチが死ぬと、グレーブ・ロスティスラーヴィチはムスティスラーフ無眼公に唆され、モスクワを焼き討ち。ミハルコ・ユーリエヴィチの後を継いだその弟フセーヴォロド大巣公は、リャザニ軍をコロームナで待ち受けたが、グレーブ・ロスティスラーヴィチは別の道を通りヴラディーミルを攻略。引き返したフセーヴォロド大巣公は、1ヶ月に及ぶ対陣の末、グレーブ軍を破る。グレーブ・ロスティスラーヴィチとムスティスラーフ無眼公、さらにはグレーブの子ロマーンやリャザニ従士団はフセーヴォロド大巣公の捕虜となる。
 グレーブ・ロスティスラーヴィチの妻と娘婿ムスティスラーフ勇敢公がグレーブ・ロスティスラーヴィチの釈放に尽力。フセーヴォロド大巣公は、グレーブ・ロスティスラーヴィチがリャザニを棄てて南ルーシに亡命することを条件に釈放に同意したが、グレーブ・ロスティスラーヴィチがこの条件を呑まず。「Лучше умру в тюрьме, а не пойду в Русь на изгнание. (獄中で死んだ方がマシで、追放されてルーシに行くようなことはしない)」
 2年間の交渉は実らず、結局グレーブ・ロスティスラーヴィチは、言葉通りに獄死した。

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