聖ダヴィド・ユーリエヴィチ
Св. Давыд Юрьевич
ムーロム公 князь Муромский (1205-28)
プロンスク公 князь Пронский (1208)
生:?
没:1228.07
父:ムーロム公ユーリー・ヴラディーミロヴィチ (ムーロム公ヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチ)
母:?
結婚:
& フェヴローニヤ
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
1 | ユーリー | -1237 | ムーロム | |||
2 | エヴドキーヤ | スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ | -1252 | ユーリエフ=ポリスキー公 | ||
スヴャトスラーフ | -1228 |
第11世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。
生年は不明。
1176年、父が死去。ヴラディーミル・ユーリエヴィチが跡を継いだ。このためヴラディーミル・ユーリエヴィチが兄弟の長兄だと思われるが、ダヴィドやユーリー等の弟たちが分領を与えられた形跡はない(と言っても情報量が圧倒的に不足、と言うより欠如しているので、ただ単にわからない)。
1186年、リャザニ系諸公に内紛が勃発した際には、これに介入したヴラディーミル大公フセーヴォロト大巣公にならい、兄とともに軍を派遣しているらしい。
兄は30年にわたってムーロム公であったが、その事績は一切知られていない。キエフやヴラディーミルとかかわらない限り、年代記作者の関心を惹かなかったということだ。
その兄が1205年(一説には1203年か04年)に死去。ダヴィド・ユーリエヴィチが跡を継いだ(このためダヴィドが次男だと思われる)。
ダヴィド・ユーリエヴィチは、おそらく兄よりはヴラディーミルとのかかわりが深かったのだろう。フセーヴォロド大巣公などとの関連で、何度か年代記にも顔を出す。
1207年、フセーヴォロド大巣公により、リャザニ諸公との戦争に引き込まれる。その功に報いるため、プロンスクが与えられた。しかしリャザニ諸公が態勢を立て直すと、ダヴィド・ユーリエヴィチはプロンスクを明け渡してムーロムに帰還した。
1212年にフセーヴォロド大巣公が死ぬと、長男コンスタンティーン賢公と次男ユーリーとの間で覇権争いが勃発。ダヴィド・ユーリエヴィチはユーリー・フセヴォローディチを支援した。
1216年、コンスタンティーン賢公と、これと同盟したスモレンスク諸公を相手に、ユーリー・フセヴォローディチとその弟たちが戦ったリピツ河畔の戦いでも、ダヴィド・ユーリエヴィチはムーロム軍を派遣して後者を支援している。ただしこの戦いは後者の敗北に終わり、北ルーシの覇権をしばらくスモレンスク系諸公が握ることになった。
1221年、ユーリー・フセヴォローディチのヴォルガ・ブルガール遠征に、息子スヴャトスラーフと弟ユーリーを従軍させる。
なお、厳密に言うと、ダヴィド・ユーリエヴィチが聖者であるかどうかは確定しない。
«ムーロムスキー・チュドトヴォーレツ муромский чудотворец»(ムーロムの奇蹟を成す人)と呼ばれる聖者は «聖ピョートル公»。兄パーヴェル公の死後、ムーロム公位を継いだが、死に臨んで妻エフフロシーニヤとともに修道士となり、息子の死んだ数日後に、夫婦そろって同日同時に死んだ。これは1228年04月のこととされている。
歴代ムーロム公を見てみると、少なくともわかっている限りでは、これに該当するのはダヴィド・ユーリエヴィチだけだ、ということで同一視されているにすぎない。
なお、聖ピョートル公の日は06月25日(新暦07月08日)。04月に死んだという年代記の記述とは矛盾する。