アンドレイ・ロスティスラーヴィチ
Андрей Ростиславич
エレーツ公 князь Елецкий
生:?
没:?
父:リャザニ公ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチ (ムーロム公ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチ)
母:?
結婚:?
子:?
第9世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。
一切不明。
『ニーコン年代記』が1147年の項で一度言及しているだけ「リャザニのエレーツからアンドレイ・ロスティスラーヴィチ公が、チェルニーゴフのダヴィドヴィチのもとへ赴いた」。
エレーツは当時リャザニ公領だったと思われるので、アンドレイ・ロスティスラーヴィチはムーロム=リャザニ系に属する、とすれば、ロスティスラーヴィチという父称からしてロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチの子だった、とすれば、エレーツを分領として与えられていた、と推測されているにすぎない。
ただし1147年当時、父はユーリー・ドルゴルーキーによってムーロム=リャザニから追われていた。チェルニーゴフのダヴィドヴィチ兄弟はユーリー・ドルゴルーキーの敵であったから、アンドレイ・ロスティスラーヴィチもそのもとに避難したということだろうか。
1145年に父がムーロム公となった際に、リャザニを委ねられたのはアンドレイ・ロスティスラーヴィチではなくグレーブ・ロスティスラーヴィチだったとされている。1146年には、父もグレーブ・ロスティスラーヴィチも、ユーリー・ドルゴルーキーによってムーロム=リャザニから追放された。
このことからすると、アンドレイ・ロスティスラーヴィチはグレーブ・ロスティスラーヴィチの弟だったのではないだろうか。