リューリク家人名録

ヴラディーミル・アンドレーエヴィチ «フラーブルィイ»

Владимир Андреевич "Храбрый"

セールプホフ公ボーロフスク公 князь Серпуховский и Боровский (1358-1410)
ウーグリチ公 князь Углицкий (1405-10)

生:1353.07.16
没:1410.05/08.29/08.12(享年57)

父:セールプホフ公アンドレイ・イヴァーノヴィチモスクワ公イヴァン1世・カリター
母:マリーヤ (ロストーフ=ボリソグレーブスキイ公コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチ

結婚:1371
  & エレナ公女 -1437 (リトアニア大公アルギルダス

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
エレーナ・オリゲルドヴナと
1アンドレイ
2イヴァン1381-1422セールプホフヴァシリーサリャザニ公フョードル・オーリゴヴィチ
3セミョーン-1426ボーロフスクヴァシリーサノヴォシーリ公セミョーン・ロマーノヴィチ
4ヤロスラーフ1389-1426マロヤロスラーヴェツアンナ-1411ノヴレンスク公セミョーン・ヴァシーリエヴィチ
マリーヤフョードル・コーシュキン
5アンドレイ-1426ラードネジュイヴァン・フセヴォロージュスキイ
6フョードル
7ヴァシーリイ1394-1427ペレムィシュリユリアーニヤ

第15世代。モノマーシチ(モスクワ系)。

 父の死後に誕生。さらに1358年には兄イヴァン・アンドレーエヴィチも死去。ヴラディーミル・アンドレーエヴィチが母とふたり残された。
 1359年には伯父のヴラディーミル大公モスクワ公イヴァン赤公も死去。モスクワにはまだ6歳のヴラディーミル・アンドレーエヴィチ、従兄弟でまだ9歳のモスクワ公ドミートリイ・ドンスコーイ、その弟でまだ5歳のズヴェニーゴロド公イヴァン小公と、幼児ばかりが残された。かれらはそろって府主教アレクシーの庇護の下、モスクワで育てられた(イヴァン小公も1364年に死去)。
 このような幼少期の環境によるものか、ヴラディーミル・アンドレーエヴィチはその後終生にわたりドミートリイ・ドンスコーイに忠実であった。

 1363年まで続いた、ドミートリイ・ドンスコーイスーズダリ公ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチとのヴラディーミル大公位を巡る争いでは、ヴラディーミル・アンドレーエヴィチはボヤーリンたちに連れられてドミートリイ・ドンスコーイと行動をともにしている(サライにも伺候した)。

 1370年、モスクワに侵攻したリトアニア軍と戦う。その後ドミートリイ・ドンスコーイアルギルダスと講和し、この取り決めに従ってヴラディーミル・アンドレーエヴィチはアルギルダスの娘と結婚した。

 1375年、ドミートリイ・ドンスコーイのトヴェーリ遠征に従軍。

 1379年、リトアニアの内紛に乗じて、ドミートリイ・ボブローク=ヴォルィンスキイとともにリトアニア領ルーシ(セーヴェルスカヤ・ゼムリャー)に侵攻。トルブチェフスク、スタロドゥーブを占領した。

 1380年、クリコーヴォの戦いでは、ドミートリイ・ボブローク=ヴォルィンスキイとともに騎兵を率い、ママイ・ハーン軍を破る。
 本隊が崩れかかったのを見たヴラディーミル・アンドレーエヴィチは突撃を主張するが、モスクワ軍にとって逆風であることを理由にドミートリイ・ボブローク=ヴォルィンスキイが押しとどめたという。やがて風向きが変わったのを捉えたドミートリイ・ボブローク=ヴォルィンスキイの「Теперь пора!」の声とともに両部隊はタタール軍に突撃。これによりタタール軍は崩壊して、モスクワ軍の勝利が決まった。
 なお、添え名の «フラーブルィイ(勇敢な)» は、この時の功績を讃えてつけられた。

 1382年、トクタミシュがルーシに侵攻し、モスクワを攻略。ヴラディーミル勇敢公はヴォロク・ラムスキイに軍を召集しに赴いていたが、モスクワを破壊して西進したタタール軍を撃破。トクタミシュはステップに帰還した。なおこの時ドミートリイ・ドンスコーイもペレヤスラーヴリやコストロマーに軍を召集しに赴いており、タタール軍とは戦っていない。

 1385年、ドミートリイ・ドンスコーイによりコロームナに派遣され、リャザニ大公オレーグ・イヴァーノヴィチと戦うが、敗北した。

 1389年、ドミートリイ・ドンスコーイが死去。
 当時のルーシの慣習に従うと相続上の優先権は年長者にある。ドミートリイ・ドンスコーイの最年長の親族は遺児ヴァシーリイ1世ではなくヴラディーミル勇敢公だった。ヴラディーミル勇敢公自身はモスクワ大公位の相続を主張しなかったようだが、ヴァシーリイ1世の側としては年長者であり、しかも赫々たる名声につつまれたヴラディーミル勇敢公を警戒せざるを得ず、そのため両者間には不和が伝えられた。おそらくそのためだろう、ヴラディーミル勇敢公はモスクワを去ってセールプホフに、次いでトルジョークに移っている。
 しかし1390年には和解し、ヴォロクとルジェーフを与えられる。以後、ヴァシーリイ1世に仕える。ゴロデーツ、ウーグリチ、コゼリスクも与えられた。

 1392年、ノーヴゴロド遠征。

 1395年、ティムールがヴォルガ中流域に侵攻し、これを迎え撃つためヴァシーリイ1世がコロームナに出陣した際には、モスクワの護りを委ねられている(結局モスクワ軍とティムールとの衝突は起こらなかった)。

 1408年にエディゲイがモスクワに侵攻した際には、モスクワ防衛の指揮を執る。その功績により、ヴァシーリイ1世から、広大な所領を与えられた。

 モスクワはクレムリンのアルハンゲリスキイ大聖堂に葬られる。

 タタール語とリトアニア語を話せたらしい。

 添え名の «フラーブルィイ» は、上述のように、「勇敢な」という意味。クリコーヴォの戦いの功績によりつけられた。

▲ページのトップにもどる▲

最終更新日 15 08 2012

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

ロシア学事始
ロシアの君主
リューリク家
人名録
系図
人名一覧
inserted by FC2 system