ヴァシリーサ・メレンティエヴァ
Василиса Мелентьева
ツァリーツァ? царица всея Руси (?-?)
生:?
没:?
父:?
母:?
結婚①:
& ニキータ・メレンティエフ
結婚②:1575?−モスクワ
& ツァーリ・イヴァン4世雷帝 1530-84
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
---|---|---|---|---|---|---|
先夫と | ||||||
1 | フョードル | − | ||||
2 | マリーヤ | − |
一般的にイヴァン雷帝の6人目の妃とされている。
素性不詳。生没年も父称もわからない。父親が誰か、そもそもいかなる階級に属したのかすら不明。
イヴァン雷帝と結婚した時点では寡婦だったらしい。しかし最初の夫についてはよくわからない。
ある史料によれば、ヴァシリーサの最初の夫はニキータ・メレンティエフと呼ばれている。だとするとヴァシリーサ・メレンティエヴァの «メレンティエヴァ» は最初の夫の姓ということになる。かれはオプリーチニクに殺されたとも、マリュータ・スクラートフ(イヴァン雷帝の寵臣)に毒殺されたとも言われる。
他方、ヴァシリーサの最初の夫はメレンティイ・イヴァノーフという官吏だったとする説もある。とするとヴァシリーサ・メレンティエヴァの «メレンティエヴァ» というのは姓ではなく、«メレンティイの妻 Мелентьева жена» の勘違いということになる。かれについては、リヴォニア戦争で戦死したと伝えられている。
イヴァン雷帝がいつヴァシリーサ・メレンティエヴァと結婚したか、はっきりしない。アンナ・ヴァシーリチコヴァを修道院に押し込んだのが1575年末頃と考えられるので、ヴァシリーサ・メレンティエヴァとの結婚は当然それ以降ということになろう。アンナ・ヴァシーリチコヴァの時と同様に教会の祝福はなく、そもそも結婚式自体おこなわれていないようだ。おそらくそのためもあるだろうが、当時の史料は彼女を単に «女» と呼んで、«ツァリーツァ» とは呼んでいない。
彼女の最後についてもはっきりしない。
ある説によれば、彼女の密通を知ったイヴァン雷帝によって密通相手の死骸とともに生き埋めにされた。別の説によれば、ノーヴゴロドで修道院に押し込められただけで済んだという。
これは結婚の数ヶ月後という説もあれば、1577年のことだとも言われる。16世紀ヴャージマ郡の課税台帳によれば、ヴァシリーサの連れ子フョードルとマリーヤにイヴァン雷帝から封土(世襲領地ではない)が与えられているが、これは1579年のことと考えられる。とすると、イヴァン雷帝が次の妃マリーヤ・ナガーヤと結婚したのが1580年以降とされるので、ヴァシリーサ・メレンティエヴァもその頃まではイヴァン雷帝の妃であったのだろう。
なお、ヴァシリーサ・メレンティエヴァは後世のでっち上げである、との説がある。ヴャージマ郡の課税台帳から、フョードルとマリーヤ、そしてその母親ヴァシリーサが実在したことは確かだろう。ただしこのヴァシリーサなる女性がイヴァン雷帝の妃であったという点については、確かなことはよくわからない。