ヴァシーリイ・ユーリエヴィチ «コソーイ»
Василий Юрьевич "Косой"
ズヴェニーゴロド公 князь Звенигородский (1434)
モスクワ大公 великий князь Московский (1434)
生:1403頃
没:1448−モスクワ
父:ズヴェニーゴロド公ユーリイ・ドミートリエヴィチ (モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイ)
母:アナスタシーヤ (スモレンスク公ユーリイ・スヴャトスラーヴィチ)
結婚①:
& エヴプラクシーヤ公女 (ベリョーフ公ミハイール・ヴァシーリエヴィチ)?
結婚②:
& アナスタシーヤ公女 (ラードネジュ公アンドレイ・ヴラディーミロヴィチ)
子:?
第17世代。モノマーシチ(モスクワ系)。
年代記への初出は1433年で、生年は不明。伝統的にユーリイ・ドミートリエヴィチの長男とされ、1433年の時点ではすでに成年に達していたと考えられる。
1433年、従兄弟のモスクワ大公ヴァシーリイ2世の婚礼に弟ドミートリイ・シェミャーカとともに参列。その席で、締めていた黄金の帯を母后ソフィヤ・ヴィトフトヴナに没収され、怒ったヴァシーリイとドミートリイのユーリエヴィチ兄弟はモスクワを退去。父のもとに逃亡するが、その途中でヴァシーリイ2世を支持していたヤロスラーヴリ公フョードル・ヴァシーリエヴィチのヤロスラーヴリを攻略している。
これが、父がヴァシーリイ2世に対して内戦を開始するきっかけになったと言われる。
父がヴァシーリイ2世との戦いを始めると、ヴァシーリイ・ユーリエヴィチは次弟ドミートリイ・シェミャーカとともにこれに積極的に加わる。クリャージマの戦いに従軍し、モスクワ軍を撃破。ヴァシーリイ2世を捕虜とし、父がモスクワ大公に。報復を警戒したヴァシーリイ・ユーリエヴィチはヴァシーリイ2世をすぐに処分するよう主張したが、父はヴァシーリイ2世にコロームナを分領として与えた。
この処分に不満を覚えたユーリエヴィチ兄弟は、父にこの処分をそそのかしたボヤーリンのセミョーン・モローゾフを殺し、父の怒りを怖れてコストロマーに逃亡した。
ヴァシーリイ2世は兵を招集。情勢が逆転したことを知った父は、自発的にモスクワを明け渡してガーリチ=メールスキイに帰還。しかしユーリエヴィチ兄弟はあくまでもヴァシーリイ2世に反発し、コストロマーでヴャートカ、ガーリチの兵を集め、ヴァシーリイ2世軍を破る。
1434年、父が合流。大公軍を破り、ヴァシーリイ2世は逃亡した。しかしその直後、父が死去。
父の死で、ヴァシーリイ・ユーリエヴィチはすぐさま自らモスクワ大公を称した。しかしこれに、ふたりの弟、ドミートリイ・シェミャーカとドミートリイ赤公が反発。父の死後長男が跡を継ぐというのは自然の理で(ちなみに叔父たちは死に絶えていた)、弟たちが反発する理由はない。あるいは日頃から仲が悪かったのだろうか。
弟ふたりはヴァシーリイ2世と講和。3者の連合軍がモスクワに迫り、ヴァシーリイ・ユーリエヴィチはわずか1ヶ月の在位でモスクワを後に逃亡した。
ノーヴゴロドに逃亡したヴァシーリイ・ユーリエヴィチは、1435年、コストロマーに軍を集結。ヤロスラーヴリ近郊でヴァシーリイ2世軍と戦い、敗北。カーシンに逃亡した。
懲りないヴァシーリイ・ユーリエヴィチは再び軍を集め、ヴォーログダにいたヴァシーリイ2世軍を撃破。ヴャートカに呼応するよう呼びかけるが、ヴァシーリイ2世も再び軍を率いて出陣。対陣する中、和解が成立し、ヴァシーリイ・ユーリエヴィチはドミートロフを分領としてもらった。
しかし平和は長続きせず、ヴァシーリイ・ユーリエヴィチはひと月をドミートロフで過ごすとすぐにコストロマーへ。軍を集結すると、ガーリチ=メールスキイを奪い、ウーステュグを攻略。
1436年、ヴァシーリイ・ユーリエヴィチはロストーフ近郊でヴァシーリイ2世と対峙する。ヴァシーリイ・ユーリエヴィチはヴァシーリイ2世に夜明けまでの停戦を呼びかける。ヴァシーリイ2世がこれに応じ、軍を物資調達のため解散させたと見るや、ヴァシーリイ・ユーリエヴィチは襲撃。
しかし結局ヴァシーリイ2世軍は勝利。ヴァシーリイ・ユーリエヴィチは捕らえられ、モスクワに連行されて、目を潰された。
記録はその後のヴァシーリイ・ユーリエヴィチについては何も伝えていない。
ヴァシーリイ・ユーリエヴィチについては、ズヴェニーゴロド公だとかガーリチ=メールスキイ公といった肩書きが加えられている例を見かけるが、上記のように、おそらく公式な(つまりはヴァシーリイ2世から認められた)自前の分領というものは持ったことがないと思われる。死んだのがモスクワであったと伝えられており、おそらくは目を潰された後も分領を与えられずに監禁されていたのだろうと想像される。
モスクワはクレムリンのアルハンゲリスキイ大聖堂に葬られる。
アルハンゲリスキイ大聖堂内の装飾画では、ヴァシーリイ・ユーリエヴィチに後光が描かれている。17世紀のものとされているが、聖者だったのか?
なお、添え名の «コソーイ» は「斜めの」が原義。それが転じて、「斜視の、やぶにらみの」という意味で使われている。1436年に目を潰されたことからこう呼ばれたのだと言われる。