リューリク家人名録

ソフィヤ・フォミーニチナ・パレオローグ

Ζωή Παλαιολογίνα, Зоя/Софья Фоминична Палеолог

モスクワ大公妃 великая княгиня Московская (1472-1503)

生:1448
没:1503.04.07

父:モレア僭主トマス・パライオロゴス
母:カテリーナ・アセニナ (アカイア公チェントゥリオーネ・ザッカリア)

結婚:1472−モスクワ
  & モスクワ大公イヴァン3世大帝 1440-1506

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
イヴァン大帝と
1エレーナ1474-
2フェオドーシヤ1475/85-1501ヴァシーリイ・ダニイーロヴィチ-1524ホルム公
3エレーナ1476-1513アレクサンドラス1461-1506ポーランド王・リトアニア大公
4ヴァシーリイ1479-1533モスクワソロモーニヤ-1542ユーリイ・サブーロフ
エレーナ-1538ヴァシーリイ・グリンスキイ
5ユーリイ1480-1536ドミートロフ
6ドミートリイ1481-1521ウーグリチ
7イヴァン1485-
8セミョーン1487-1518カルーガ
9アンドレイ1490-1537スターリツァエヴフロシーニヤ-1569アンドレイ・ホヴァンスキイ公
10エヴドキーヤ-1513

ビザンティン帝国最後の皇帝コンスタンティノス12世・ドラガセスの姪。ギリシャ語名はゾエ・パライオロギナ(ロシア語ではゾーヤ・パレオローグ)。

 生年は不明。おおよそ、早くて1440年、遅くて1455年とされているようである。彼女の結婚話が持ち上がったのが1469年のことだから、1440年の生まれだとするとあまりに晩婚すぎる気もするが、当時の彼女はローマ教皇の居候にすぎず、ビザンティン皇位の筆頭継承権者であった兄だか弟だかすら結婚相手がよくわかっていないのだから、結婚できただけでも良かった方だろうか。
 ちなみに、両親の結婚は1430年。姉妹のヘレネーは生年は不明だが、1446年に結婚している。また兄弟のアンドレアスは1453年、マヌエルは1455年の生まれ。

 1460年、スルターン・メフメト2世がモレアを征服。ゾエ・パライオロギナは父とともにコルフに逃亡し、その後ローマに。ローマ教皇ピウス2世(時代錯誤の対ムスリム十字軍に取り憑かれた教皇)の庇護を受ける。
 1465年、父が死去。ゾエがローマの教皇宮廷に移ったのはこの頃で、それまではコルフにいたとしている文献もある(なお当時はローマ教皇はパウルス2世に替わっていた)。
 父はローマでカトリックに改宗しているが、ゾエもまた改宗したか否かは不明。

 1469年、教皇パウルス2世がイヴァン大帝に、ゾエ・パライオロギナとの結婚を提案。
 なお、すでに1466年には彼女の結婚話が持ち上がっていたとも言われる。相手はキプロス王ジャック2世・ド・リュジニャンだったそうだが、話はまとまらなかった。
 当時ローマには、ニカエア大主教であったベッサリオンがおり、かれがモスクワとローマとの仲介役となった。交渉はすぐにまとまり、ふたりは1472年に結婚した。

ベッサリオン(1403-72)はギリシャ人で、正教会有数の学識者だったが、カトリックとの合同を積極的に推進し、ローマに亡命。カトリックの枢機卿となり、2度までもローマ教皇の候補となっている。西欧に古典ギリシャ文化を紹介するのに多大な貢献をした。トマス・パライオロゴス一家をローマで直接的に庇護したのもかれだと言われる。ゾエに付き添ってモスクワにまでやって来たが、モスクワとローマを融和させるという使命には失敗した。

 ゾエ・パライオロギナがソフィアという名を与えられたのは結婚の時だとする文献があるが、一方でローマ教皇の庇護を受けるようになった時だとする文献もある。後者であれば、彼女がカトリックに改宗した証だとされたりもするが、単にイタリア語(あるいはラテン語)で馴染みのないゾエという名を棄てさせられただけかもしれない。後者であれば、カトリックから正教に改宗した証ということも言えるかもしれない。しかしローマ時代の彼女がカトリックだったかどうかはよくわからないが、モスクワ時代の彼女が正教徒だったことは確実である。

 イヴァン大帝に対して大きな影響力を行使。1480年代以降の重要な政治的事件で、彼女の関与していないものはないとも言われる。特に、1480年にイヴァン大帝がタタールと対立し、最終的に «タタールのくびき» を振り払ったのも、彼女の意見にイヴァン大帝が動かされた結果だとされる(タティーシチェフがそう述べている)。

 特にソフィヤ・パレオローグが最大の関心を払ったであろうと思われるのが、イヴァン大帝の後継者を誰にするか、という問題である。
 この問題は、先妃の子イヴァン・モロドーイがおり、しかも1470年代半ばには成人に達していたため、当初は問題とならないはずであった(ソフィヤが結婚する前にすでにイヴァン・モロドーイが共同統治者とされていた)。ところが、ヴェネツィア大使の証言によると、1476年にはすでに継母と継子との間の関係は険悪なものとなっていたようだ。ソフィヤ・パレオローグにはまだ男子が生まれていなかったので、おそらく継承問題とは無関係に、ふたりの気が合わなかったのだろう。
 イヴァン・モロドーイは、1480年の «ウグラー河畔の対峙» でも、1485年のトヴェーリ遠征でも重大な役割を果たし、1483年にはモルドヴァ公の娘と結婚して男子も生み、後継者としての地位を固めていた。しかしその一方で、モスクワ宮廷にはイヴァン・モロドーイを支持する一派と、ソフィヤ・パレオローグを支持する一派とが形成されていったらしい。
 ソフィヤ・パレオローグは、自派の勢力を拡大しようとしたのか、姪マリーヤをヴァシーリイ・ミハイロヴィチと結婚させた(その父ヴェレヤー公ミハイール・アンドレーエヴィチは、当時唯一生き残っていた分領公)。その際、夫の先妃マリーヤ・トヴェルスカーヤの遺品であるネックレスをマリーヤに贈ったらしい。ところが、1483年にイヴァン大帝が、イヴァン・モロドーイと結婚したエレーナ・ステパーノヴナにこのネックレスを贈ろうとしたことから、事は紛糾。問題のネックレスをヴァシーリイ・ミハイロヴィチが持っていることを知ったイヴァン大帝がこれを取り戻そうとし、これに怒ったヴァシーリイ・ミハイロヴィチがリトアニアに逃亡。これ幸いとイヴァン大帝ミハイール・アンドレーエヴィチからヴェレヤー等の分領を没収した。のちにイヴァン大帝ミハイール・アンドレーエヴィチに分領を返還し、ヴァシーリイ・ミハイロヴィチも赦したが、いずれにせよソフィヤ・パレオローグにとっては大きな失点となった。

ちなみにこの «マリーヤ» なるソフィヤの姪の素性は不明。兄弟のアンドレアスとマヌエルの生年が1453年と1455年だから、年代的にかれらの子ではあり得ない。とすると姉(?)ヘレネーの娘ということになるが、該当する人物はいなさそう。何より、彼女の嫁ぎ先のセルビアとモスクワとの間には、当時はほとんど交渉はなかった。

 1490年、イヴァン・モロドーイが発病。ソフィヤ・パレオローグはイタリアから医師を呼び寄せたが、医師は治療に失敗し、イヴァン・モロドーイが死去(当然毒殺の噂が流れた)。
 イヴァン・モロドーイには遺児ドミートリイ・イヴァーノヴィチがいたが、まだ幼かった。とはいえソフィヤ・パレオローグの長男ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチとて4歳年長でしかない。しかしルーシではこれまで祖父から孫へ大公位が継承されたことはない。そもそも父から子への継承すら近年ようやく確立してきたばかりであるから、なくて当然だが、大公位継承が慣習に従っていた当時にあっては、先例がないというのは大きかっただろう。ましてドミートリイの母親は大公の後継者の嫁でしかないが、ヴァシーリイの母親は現在の大公妃である(もっとも、ソフィヤ・パレオローグはどうやら人気がなかったらしい)。
 こうして、おそらく水面下で、ドミートリイ派とヴァシーリイ派とがモスクワ宮廷を二分して激しく対立したものと想像される。

 1497年、貴族会議書記ヴラディーミル・グーセフの陰謀が発覚。ヴァシーリイ派が挙兵してドミートリイ・イヴァーノヴィチを殺そうというものだったらしい。陰謀が発覚したことでヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは監禁され、ソフィヤ・パレオローグも失権。1498年、ウスペンスキイ大聖堂でドミートリイ・イヴァーノヴィチが大公に即位した。こうして一旦は後継者問題が決着した。
 当時、モスクワの正教会内部には、のちに «ジドーヴストヴユシチエ» と呼ばれる一派があった(発祥はノーヴゴロド)。かれら自身は改革派を自認していたようだが、正教会主流派はこれを異端として反発。1499年にはイヴァン大帝自身がジドーヴストヴユシチエの弾圧に乗り出す。この年、イヴァン・パトリケーエフ公セミョーン・リャポロフスキイ公が失脚している。ジドーヴストヴユシチエとのかかわりがあったかとも思われるが、同時にかれらはドミートリイ派の有力貴族であった。しかも、ドミートリイの母エレーナ・ステパーノヴナもまたジドーヴストヴユシチエのシンパであったらしい。
 こうして宗教問題ともからみ、後継者問題は «解決» からわずか5年で逆転する。1502年、エレーナ・ステパーノヴナドミートリイ・イヴァーノヴィチが逮捕、監禁され、ソフィヤ・パレオローグは復権。長男ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチが念願の大公位に就いた。

 自分と息子の勝利に安心したのか、翌1503年、ソフィヤ・パレオローグは死去。ヴォズネセンスキイ修道院に葬られた。

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最終更新日 21 08 2012

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