リューリク家人名録

マリーヤ・ヤロスラーヴナ

Мария Ярославна

公女 княжна
モスクワ大公妃 великая княгиня Московская (1433-)

生:1418?
没:1484

父:マロヤロスラーヴェツ公ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチセールプホフ公ヴラディーミル勇敢公
母:マリーヤ (フョードル・フョードロヴィチ・コーシュキン=ゴルテャーイ

結婚:1433
  & モスクワ大公ヴァシーリイ2世 1415-62

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
ヴァシーリイ2世と
1ユーリイ1437-41
2イヴァン1440-1505モスクワマリーヤ-1468トヴェーリ大公ボリース・アレクサンドロヴィチ
ソフィヤ-1503モレア僭主トマス・パライオロゴス
3ユーリイ1441-72ドミートロフ
4セミョーン1444-
5アンドレイ1446-93ウーグリチエレーナ-1483メゼツク公ロマーン・アンドレーエヴィチ
6ボリース1449-94ヴォロクユリアーニヤ-1504ホルム公ミハイール・ドミートリエヴィチ
7アンナ1450-1501ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ1448-83リャザニ大公
8アンドレイ1453-81ヴォーログダ

第17世代。モノマーシチ(モスクワ系)。

 彼女との結婚は、夫にとって苦難の時代の始まりであった。彼女と結婚することによって、夫は最有力のボヤーリンの支持を失い、また結婚式において、母后が最大の敵を怒らせ、結果として20年に及ぶモスクワの内戦が勃発するきっかけとなった。
 すなわち1433年、ガーリチ=メールスキイ公ユーリイ・ドミートリエヴィチが蜂起し、夫からモスクワを奪う。ユーリイ・ドミートリエヴィチは夫にコロームナを与えたので、マリーヤ・ヤロスラーヴナも夫とともにコロームナに追放された。
 一旦はモスクワ大公位を奪い返した夫だったが、1434年には再び失陥。今度は夫はニージュニイ・ノーヴゴロドに逃亡したが、マリーヤ・ヤロスラーヴナは捕らえられ、ガーリチ=メールスキイに幽閉された。この時はユーリイ・ドミートリエヴィチの死で、その子らに内紛が持ち上がり、夫がモスクワ大公位を取り返して、マリーヤ・ヤロスラーヴナもモスクワに帰還することができた。
 1446年、夫が捕らえられ、目をつぶされると、マリーヤ・ヤロスラーヴナもまた捕らえられた。ふたりはウーグリチに追放される(この時五男アンドレイ・ゴリャーイを産んでいる)。夫は権力を奪回するものの、目をつぶされたこともあり、その後は母后ソフィヤ・ヴィトフトヴナとともにマリーヤ・ヤロスラーヴナが政治の面で発言権を強めたらしい。

 クレムリン内のヴォズネセンスキイ女子修道院を、自らの資産を投入して建て直させる(1467年)。

 息子たちの中では、特にアンドレイ・ゴリャーイを偏愛していたらしい。このため、アンドレイ・ゴリャーイボリース・ヴァシーリエヴィチイヴァン3世と対立した際には、マリーヤ・ヤロスラーヴナが取り成してやっている。

 1482年、修道女となる(修道名マルファ)。

 ヴォズネセンスキイ女子修道院に埋葬された。ソ連時代に修道院が取り壊されると、遺骸はアルハンゲリスキイ大聖堂に改葬された。

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最終更新日 08 11 2011

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