マリーヤ・テムリューコヴナ
Кученей/Кучена, Мария Темрюковна
公女 княжна
ツァリーツァ царица всея Руси (1561-)
生:?
没:1569.09.06−アレクサンドロヴァ・スロボダー
父:テムリューク
母:?
結婚:1561−モスクワ
& ツァーリ・イヴァン4世雷帝 1530-84
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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イヴァン雷帝と | |||||||
1 | ヴァシーリイ | 1563 |
イヴァン雷帝の2人目の妃。
父テムリュークは、チェルカース人の首長のひとり。15世紀にカフカーズに住んでいたジェノヴァ人が、「ギリシャ語やラテン語では «ジゴイ(ジギ)»、タタールやテュルクは «チェルカース»、自分たちの言葉では «アドィギ» と呼ばれている」と記しているが、チェルカース人とは大雑把にこんにちのチェルケース人、アドィゲ人、カバルダー人を指す。クチェナ、あるいはクチェネイ、あるいはグァシェネ(当時のかれらの言葉でどう発音していたかは知らない)は、そのプリンセスとして生まれたわけだ。
1560年にアナスタシーヤ・ロマーノヴナを亡くしていたイヴァン雷帝は、周囲から勧められて再婚相手を探していたが、ポーランド王女に振られて、チェルカース人の間に使節を派遣していた。なぜよりにもよってチェルカース人だったのかはよくわからないが、テムリュークの息子サルタンクールがすでに1558年にモスクワに来ていて、正教に改宗して(洗礼名ミハイール)ロシア貴族となっていたので(チェルカース人の首長の息子であるから分領公扱いされて «チェルカースキイ公» と呼ばれた)、あるいはかれと関係があるのかもしれない。
1561年、クチェナはモスクワにやって来ると正教に改宗し、マリーヤの洗礼名をもらった。その1ヶ月後にはウスペンスキイ大聖堂でイヴァン雷帝と結婚している。
チェルカース人には複数の首長がいたようだが、その一族がロシア貴族化すると一様に «チェルカースキイ公» の名乗りを認められた。このため、チェルカースキイ公家はひとつではない。テムリュークの一族では、ミハイール・テムリューコヴィチのほかに、甥ドミートリイ・マムストリューコヴィチ、従兄弟ボリース & ガヴリイール・カムブラートヴィチの4つの系統があった(ただしいずれもすぐに断絶している)。また、テムリューク一族と関係があるかどうかも不明だが、アハマシュークの一族、アレグークの一族、クデネートの一族などもチェルカースキイ公家である。
同時代の史書のみならず、現代の文献も、一般的に彼女を否定的に捉えている。性格が捻じ曲がっていたとか魔術を使ったとかであればともかく、オプリーチニナ制度の創設も彼女の助言によるものだとなれば歴史的に重要である。