リューリク家人名録

マリーヤ・フョードロヴナ・ナガーヤ

Мария Федоровна Нагая

ツァリーツァ царица всея Руси (1580-)

生:?
没:1608

父:フョードル・フョードロヴィチ・ナゴーイ=フェデツ (フョードル・ミハイロヴィチ・ナゴーイ=ネモーイ)
母:?

結婚:1580/81/82−モスクワ
  & ツァーリ・イヴァン4世雷帝

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
イヴァン雷帝と
1ドミートリイ1583-91ウーグリチ

イヴァン雷帝の7人目(8人目?)にして最後の妻。

 ただし、その結婚年も実ははっきりしない(一般に1580年とされる)が、これはそもそも結婚式が行われていないためである。
 教会法上は、再婚は2度までしか認められていなかった。アナスタシーヤ・ザハーリイナの死後、イヴァン雷帝マリーヤ・テムリューコヴナマルファ・ソバーキナに先立たれ、教会に無理を言って認めてもらった4人目の妻アンナ・コルトフスカヤを追い出して、以後マリーヤ・ナガーヤも含めて3人ないし4人の妻を持ったとされているが、いずれも結婚式の記録は残っていない。これはひとつには、教会が認めてくれないと思ったためだろう。
 もしくはイヴァン雷帝は、彼女たちを妻だとは思っていなかったのかもしれない。だからこそ平気でエリザベス1世と結婚話を進めていられたのかもしれない。

 ちなみにその、イヴァン雷帝から妻と認めてもらっていなかった(かもしれない)女性たちとは、マリーヤ・ドルゴルーカヤアンナ・ヴァシーリチコヴァヴァシリーサ・メレンティエヴァである。
 8人の妻のうち、有力貴族の娘は、ボヤーリンの家系の出であるアナスタシーヤ・ザハーリイナと、チェルカース人の首長の娘マリーヤ・テムリューコヴナ、そして公女であるマリーヤ・ドルゴルーカヤだけである。しかしマリーヤ・ドルゴルーカヤは父親不明。ソバーキナコルトフスカヤヴァシーリチコヴァはかなり低い格の家柄で、メレンティエヴァとなるとこれは前夫の姓であり、父親どころか本姓すらも不明である。トヴェーリ大公女やビザンティン皇女と結婚した祖父とまではいかずとも、有力ボヤーリンやリトアニア貴族の娘と結婚した父とも、似ても似つかない花嫁の選択基準である。これもまた、まともに(正式に)結婚したわけではなかったからか。
 イヴァン雷帝の妻の数が7人か8人かはっきりしないのは、このような事情による。

 すなわち教会法上も、そしておそらく実際上も、マリーヤ・ナガーヤはイヴァン雷帝の妻ではなく、単なるだった。彼女はツァリーツァではなかった。当然、ふたりの間に生まれた息子ドミートリイ・イヴァーノヴィチは嫡出子ではなく庶子、すなわち私生児だった。ドミートリイ・イヴァーノヴィチツァーリになれない存在だった。
 この事実を前提にすると、この当時の歴史理解ががらりと変わる。
 もっとも、イヴァン雷帝が教会法などという瑣末事をどの程度気にかけていたかは話が別。

 ちなみにナゴーイ家は、家系図によれば13世紀以来トヴェーリ大公の、次いでモスクワ大公のボヤーリンだが、史料上は16世紀初頭が初見。マリーヤの祖父フョードル・ミハイロヴィチがオコーリニチイになった程度の、中の上といった貴族であった。ただしその姪エヴドキーヤ・アレクサンドロヴナが1551年にスターリツァ公ヴラディーミル・アンドレーエヴィチの妃となっている。父フョードル・フョードロヴィチも、長年地方総督や軍司令官を務め、1577年にようやくオコーリニチイに。
 そんな家系であるから、結婚以前のマリーヤ・ナガーヤについては一切不明である。

 1584年、イヴァン雷帝が死ぬと、ツァーリとなった継子フョードル1世によりウーグリチを与えられた息子ドミートリイ・イヴァーノヴィチとともにウーグリチへ。これにはマリーヤ・ナガーヤも、その父フョードル・ナゴーイや親族も同行した。体のいい国内追放処分であった。

 1591年、ドミートリイ・イヴァーノヴィチが死去。その死因について、事故説と他殺説とがある(さらに別人説も)。

 上述のような事情で、厳密にはドミートリイ・イヴァーノヴィチはツァーリ位継承権を持っていなかった。
 しかしその一方で、ドミートリイ・イヴァーノヴィチイヴァン雷帝の息子であることに違いはない。教会法の縛りがどの程度の意味を持っていたかよくわからないが、のちの時代の話になるが、人々は偽ドミートリイ1世(つまりドミートリイ・イヴァーノヴィチ)の即位を認めている。
 しかもフョードル1世には子がなく、モスクワ大公家の血を引く男系子孫はほかにドミートリイ・イヴァーノヴィチがいるだけだった。少なくとも、このまま子なくしてフョードル1世が死ねば、教会法がどうあれドミートリイ・イヴァーノヴィチ以外にツァーリになれる人物はいないのも確かである。
 マリーヤ・ナガーヤは、「ドミートリイ・イヴァーノヴィチボリース・ゴドゥノーフに暗殺された」と主張したが、この主張がある程度受け入れられたのも、誰もがドミートリイ・イヴァーノヴィチをツァーリ候補と見なしており、ボリース・ゴドゥノーフにとって邪魔な存在であると認識していたためだろう。
 こんにち、教会法を持ち出して「ドミートリイ・イヴァーノヴィチボリース・ゴドゥノーフにとって脅威となる存在ではなかった」とする主張がある(たいていこの主張は、「だからボリース・ゴドゥノーフが暗殺する必要はなかった、だからボリース・ゴドゥノーフは暗殺をしていない」と続く)。しかし、イヴァン雷帝の息子であり、ゆえに教会法的にはともかく人々の目から見れば権力への正統性を持ち、しかも他に血縁がいなかったこともあってフョードル1世の後継者候補の第一かつ唯一であったドミートリイ・イヴァーノヴィチボリース・ゴドゥノーフにとって目障りな存在であったことは確かであろう。
 もっとも、「ドミートリイ・イヴァーノヴィチボリース・ゴドゥノーフにとって目障りな存在であった」ということは、「だからボリース・ゴドゥノーフドミートリイ・イヴァーノヴィチを殺させた」という結論には必ずしも結びつかない。

 声の大きい方が勝つのはいつの時代も同じで、マリーヤ・ナガーヤの暗殺説はその日のうちにウーグリチで市民の暴動まで引き起こした。このためボリース・ゴドゥノーフは、真相究明のためヴァシーリイ・シュイスキイ公を派遣。その結果、ヴァシーリイ・シュイスキイ公は事故死と断定。のみならずマリーヤ・ナガーヤをはじめとする周辺の «過失責任» を認め、ナゴーイ一族は投獄・追放の処分を受けた。マリーヤ・ナガーヤもベーロエ・オーゼロ(白湖)に程近いゴリツァにあるヴォスクレセンスキイ修道院に入れられ、修道女とさせられた(修道名マルファ)。

ゴリツァのヴォスクレセンスキイ修道院(ゴリツキイ・ヴォスクレセンスキイ修道院)は女子修道院で、多くの著名人がここの修道女となっている。ヴラディーミル・アンドレーエヴィチの母エヴフロシーニヤ・アンドレーエヴナ、イヴァン雷帝の4人目の妃アンナ・コルトフスカヤ、のちにボリース・ゴドゥノーフの娘クセーニヤ・ボリーソヴナなど。ちなみに、マリーヤ・ナガーヤも含め、全員無理やり修道院に押し込まれている。

 1598年、ツァーリとなったボリース・ゴドゥノーフにより修道院から出されるが、やがてすぐにまた戻された。

 1604年、偽ドミートリイ1世が出現するが、マリーヤ・ナガーヤはその真偽については沈黙していた。しかし1605年に偽ドミートリイ1世がツァーリとなり、«母后» をモスクワに呼び戻すと、モスクワ近郊でかれと «再会» したマリーヤ・ナガーヤはこれを息子と認めた。その後、クレムリンのヴォズネセンスキイ修道院に暮らした。
 1606年の偽ドミートリイ1世の死後は、偽ドミートリイは偽である、と主張する。

 没年は不明。1608年説のほかに、1610年、1612年などの説もある。

▲ページのトップにもどる▲

最終更新日 30 11 2012

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

ロシア学事始
ロシアの君主
リューリク家
人名録
系図
人名一覧
inserted by FC2 system