イヴァン2世・イヴァーノヴィチ «クラースヌィイ»
Иван Иванович "Красный"
ズヴェニーゴロド公 князь Звенигородский (-1353)
モスクワ公 князь Московский (1353-59)
ヴラディーミル大公 великий князь Владимирский (1353-59)
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1355-59)
生:1326.03.30
没:1359.11.13 (享年33)−モスクワ
父:モスクワ公イヴァン1世・カリター (モスクワ公ダニイール・アレクサンドロヴィチ)
母:?
結婚①:1341
& フェオドーシヤ公女 -1342 (ブリャンスク公ドミートリイ・アレクサンドロヴィチ)
結婚②:1345
& アレクサンドラ・イヴァーノヴナ -1364
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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アレクサンドラ・イヴァーノヴナと | ||||||
1 | ドミートリイ | 1350-89 | モスクワ | エヴドキーヤ | 1353-1407 | スーズダリ公ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ |
2 | イヴァン | 1354-64 | ズヴェニーゴロド | |||
3 | アンナ | -1399 | ドミートリイ・ヴォルィンスキイ=ボブロク | (ゲディミノヴィチ) | ||
マリーヤ |
第14世代。モノマーシチ(モスクワ系)。洗礼名ヨアン(=イヴァン)。イヴァン・カリターの次男。
1340/41年、父が死去。父の遺志により、モスクワ公位・ヴラディーミル大公位を継いだ兄セミョーン傲慢公から、ズヴェニーゴロドとルーザをもらう(もらった都市と村落の総数は23らしい)。
1347年、モスクワ軍に従軍してノーヴゴロドに遠征し、スウェーデンと戦う。
1353年、セミョーン傲慢公が死去。イヴァン・イヴァーノヴィチがモスクワ公位を継ぐ。わずか1ヶ月後には弟アンドレイ・イヴァーノヴィチも、兄と同じく疫病で死んでいるので、おそらくそのためもあったのだろう、兄の遺領はすべてイヴァン・イヴァーノヴィチが継いだ。これにより、モスクワ公領の3分の2がイヴァン・イヴァーノヴィチの領土となり、残る3分の1を甥イヴァン・アンドレーエヴィチが継いだ。
しかしヴラディーミル大公位については、1341年に父が死んだ時にも兄と大公位継承を争ったスーズダリ公コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチが、再び名乗りを上げた。影響力を拡大するモスクワに敵対していたノーヴゴロドも、コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチを積極的に支持し、サライに使節を派遣した。
サライではイヴァン・イヴァーノヴィチとコンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチ(とかれを支持する諸勢力)とが激しく争ったが、結局ジャーニー・ベクはイヴァン・イヴァーノヴィチに認可状を与えた。その後もコンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチはイヴァン・イヴァーノヴィチの大公位を認めようとせず。1354年、死の直前にようやく認めた。
ノーヴゴロドもしばらくイヴァン・イヴァーノヴィチの公位を認めなかったが、1355年になって承認している。
モスクワ公としての事績は、治世が短かったこともあって特筆すべきことは特にないが、それでもリャザニからヴェレヤー、ボーロフスクなどを獲得したとされるが、年代記でヴェレヤーが最初に言及されるのは1371年。ボーロフスクも1341年に弟アンドレイに分領として与えられたとも言われる。つまり、ヴェレヤーもボーロフスクも、いつ、いかなる経緯でモスクワ領となったかははっきりしていない。
むしろイヴァン・イヴァーノヴィチは、リャザニ公オレーグ・イヴァーノヴィチに領土を奪われたが、泣き寝入りしたとする文献がある。
一般的には、権力の実質は府主教アレクシイが握っていたと言われる。
府主教アレクシイは、モスクワのボヤーリンの息子。弟たちもボヤーリンになっている。アレクシイはセミョーン傲慢公の推薦で老齢の府主教フェオグノーストの代理となり、また早くからイヴァン・イヴァーノヴィチの補佐役も務めていた。1353年にフェオグノーストが死ぬと、フェオグノースト自身とセミョーン傲慢公の推薦により、コンスタンティノープルで府主教に叙任された。以後、1378年に死ぬまでモスクワ(ルーシ)の政治に大きな影響力を持ち、特に幼少期のドミートリイ・ドンスコーイを補佐した。
トヴェーリにおけるカーシン公ヴァシーリイ・ミハイロヴィチとホルム公フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチの対立では、ヴァシーリイ・ミハイロヴィチを支持。
1357年、府主教アレクシイの仲裁でヴラディーミルにて問題解決のための諸公会議が催されたが、ここでも両者の溝は埋まらなかった。ベルディ・ベクの裁定を求めるためサライに赴こうとしたフセーヴォロド・アレクサンドロヴィチをイヴァン・イヴァーノヴィチが妨害。無事サライに赴いたヴァシーリイ・ミハイロヴィチがトヴェーリ公位の認可状を取り付けた。
サライでは、1357年にジャーニー・ベクが息子ベルディ・ベクに殺されるという事件が起こっていた。ベルディ・ベクはそれだけでは飽き足らず、12人にものぼる兄弟や親族を殺害。ついには1359年、ベルディ・ベク自身が弟に殺され、以後ママイによって一応の安定がもたらされるまで十年以上にわたり、サライでは混乱が続いた。
とはいえそれは先の話。この時はイヴァン・イヴァーノヴィチも1358年にサライに伺候し、ベルディ・ベクから認可状を無事もらっている。
1358年、ヴァシーリイ・ミハイロヴィチ支援のため軍を派遣し、リトアニアからルジェーフを奪っている。これがイヴァン・イヴァーノヴィチの治世唯一の軍事行動である。
クレムリンのアルハンゲリスキイ大聖堂に葬られる。
添え名の «クラースヌィイ» は、現代ロシア語では「赤い」という意味だが、もともとは「美しい、素晴らしい」という意味。
「赤い」という意味の添え名には «チェールムヌィイ» も使われているので、おそらく «クラースヌィイ» は「美しい」という意味だったのだろうと思われる(«クラースヌィイ» が「赤い」という意味で使われるようになったのは16世紀だそうだ)。だとすると «美公» とか訳すのが相応しいのかもしれないが、ここでは «赤公» としておいた。