フョードル1世・イヴァーノヴィチ
Федор Иванович
ツァレーヴィチ царевич
ツァーリ царь всея Руси (1584-98)
生:1557.05.11−モスクワ
没:1598.01.06/01.16 (享年40)−モスクワ
父:ツァーリ・イヴァン4世雷帝 (モスクワ大公ヴァシーリイ3世・イヴァーノヴィチ)
母:アナスタシーヤ (ロマーン・ユーリエヴィチ・ザハーリイン)
結婚:1580−モスクワ
& イリーナ 1557-1603 (フョードル・イヴァーノヴィチ・ゴドゥノーフ)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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イリーナ・フョードロヴナと | ||||||
1 | フェオドーシヤ | 1592-94 |
第21世代。モノマーシチ(モスクワ系)。イヴァン雷帝の第六子(三男)。
1573年、ポーランド=リトアニアの国王選挙では、父に候補とされる。
1581年、父イヴァン雷帝が兄のイヴァン・ツァレーヴィチを殺す。これによりフョードル・ツァレーヴィチが父の後継者となる。
1584年、父が死去。死の前に父は摂政会議を任命する。即ち、ニキータ・ロマーノヴィチ・ユーリエフ=ザハーリイン(叔父)、ボリース・ゴドゥノーフ(義兄)、イヴァン・ペトローヴィチ・シュイスキイ公、ボグダン・ヤーコヴレヴィチ・ベリスキイ、イヴァン・フョードロヴィチ・ムスティスラーフスキイ公。
この年、アルハンゲリスク港が開かれる。
フョードル・イヴァーノヴィチの治世当初は、権力闘争が繰り広げられる。その中心となったのはフョードル・イヴァーノヴィチの義兄ボリース・ゴドゥノーフだったが、1585年にムスティスラーフスキイ公、86年にシュイスキイ公を追放。1586年にはユーリエフ=ザハーリインも病死し、ボリースが権力を掌握する。
ボリース・ゴドゥノーフはイヴァン雷帝の中央集権政策を継承し、新興の宮廷貴族 «ドヴォリャニーン»(日本語ではしばしば «士族» と訳される)を登用して大貴族 «ボヤーリン» を圧迫。
新興貴族の権力拡大のため(かれらの農奴が大貴族に奪われぬように)、1581年にユーリイの日を禁止し、92年までに土地台帳を整備。1597年にも奴隷法令を出す等、農民に対する締め付けを強化した。これに反発する農奴が、ドン、ヴォルガ、シベリアへと逃亡し、結果としてロシアの勢力圏を拡大することになった。
1584年に開かれたアルハンゲリスクを経由して、イギリスとの交易を拡大。
1589年、コンスタンティノープル総主教イエレミアス2世と交渉し、モスクワ府主教座を総主教座に格上げする(コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキア、イェルサレムに次ぐ、当時5番めの総主教座)。
1587年、ボリース・ゴドゥノーフによりポーランド=リトアニアの国王候補とされる。
1590年から93年にかけてスウェーデンと戦う。1595年、スウェーデンとテフシナ条約を締結し、国境を画定。リヴォニア戦争でイヴァン雷帝の失った領土の一部を奪回し、バルト海に進出した。
シベリア植民にも力を注ぎ、ストローガノフ家を使って西シベリアに勢力を拡大(1585年にエルマークは死去したが、その部下がシビル・ハーン国を征服)。オビ河とその支流に城塞を築いて、異民族支配の拠点とした。
同時にクリム・ハーン国と戦いつつ南方にも進出し、ヴォローネジュ、ベールゴロド、クールスク、サマーラ、サラートフ、ツァリーツィンなどに城砦を建設する。
さらにカフカーズにも進出し、グルジアとの関係を強化した。
1591年、ウーグリチでディミートリイ・ツァレーヴィチが死ぬ。
1591年、クリム・ハーン軍がモスクワに来襲。これがタタールによる最後のモスクワ攻撃となった。
これらの政策はすべてボリース・ゴドゥノーフによるもので、フョードル・イヴァーノヴィチ自身はイリーナ・フョードロヴナとともに宗教に明け暮れる生活を送った。イヴァン・カトィレフ=ロストーフスキイ公によれば、フョードル・イヴァーノヴィチは「幼少期から生涯の終わりにいたるまで……世俗の何物をも顧慮に入れず、ただ魂の救済だけを考えていた」らしい。
1598年、子のないまま、死去。
クレムリンのアルハンゲリスキイ大聖堂に葬られる。
フョードル・イヴァーノヴィチの死後、一時寡婦イリーナ・フョードロヴナに権力を、との動きもあった。全国会議が開催され、初代モスクワ総主教イオフの後押しで、ボリース・ゴドゥノーフがツァーリに選出された。